【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(18)】野球ではあまり結果を残せなかったヤクルトでの7年間でしたが、本当に濃厚な日々を送らせていただきました。

 この後、オリックスに移籍してそこでも先輩や仲間に恵まれるんですが、ヤクルト時代と合わせると、もう一生分遊んだ気がしますね。

 だって、今は飲みに行きたいとも思わなくなりましたからね。

 ヤクルト時代は、野球選手として活躍はできなかったですが、新卒の社会人としてはすごい勉強をさせてもらいました。

 バブル後期の時代でいわゆるタニマチの方々にお世話になり、自分たちの年代では味わえないぜいたくをさせていただきました。

 でもその当時、捕手だった秦さんに言われたことが印象に残っています。

「これは成功した人たちがこうやって遊ぶんだからな。今は連れていってもらえて楽しいかもしれないけど、自分が成功したわけではないからな。『鈴木さんと同席させてください』と誘われるように成績を残さなきゃダメだぞ」

 そうやって厳しいことを言ってくれる先輩もいてくれたので、今があると思います。

 ただ、その当時は何も分かってませんからメチャクチャでした。練習を終えて戸田から銀座に直行して、ホステスさんと同伴、高級クラブみたいなコースですよ。

 で、ここからが大変です。午後10時には寮で点呼がありますから、9時20分には一度、店を出るんです。そして、高速の銀座の入り口からタクシーで戸田に戻る。点呼が終わるとまた寮を抜け出して銀座に帰還ですよ。

 当時の食事と言ったら焼き肉、すし、しゃぶしゃぶのヘビーローテーションですよ。練習から銀座、同伴からお店、点呼で戸田、戸田から銀座、お店をハシゴしてアフターな生活です。

 タニマチの方々には「そんな100円ライター使ってないでこれ使いなよ」とカルティエのライターをいただいたりもしました。

 寮に戻るときには「タクシー代だからこれを使え」と言われ5万円ほど握らせてもらうこともザラでした。「多いです」と断っても「いいから持っていけ」と押し問答です。

 結局、お誘いを受けるたびに現金が増えてしまうような不思議な現象も起こりました。

 本当にすごい時代でした。野球で結果を残せてなくても、このままヤクルトにいられればいいかなと思ってしまう自分もいました。

 でも、そうはならなかったわけです。登板2試合で終わった1994年シーズンを終えたオフです。僕はオリックスへのトレードを通告されました。

 90年に就任した野村克也監督。その年のドラフト3位で指名したのが、亜大・高津臣吾さん(現ヤクルト監督)でした。

 僕と同じサイドスローの右腕で年齢も1学年上と同世代でした。93年に高津さんはチャンスをつかみ守護神に抜てきされると、チームは日本一になりました。一方、そのシーズンの僕の一軍登板はゼロでした。ただ、この移籍で僕の野球人生は一変します。