〝北京の悲劇〟の克服へ――。フリースタイルスキーの近藤心音(19=オリエンタルバイオ)がリベンジに燃えている。昨年の北京五輪では、スロープスタイルとビッグエアの2種目で代表に選出。しかし、公式練習中の大ケガで欠場を余儀なくされた。失意の経験からちょうど1年、単独インタビューに応じた若きスキーヤーが当時の心境を告白。さらに壮絶なリハビリ生活の様子や、2026年ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪にかける思いを明かした。

 ――ビッグエアの公式練習中に転倒。同種目の出場を断念し、約1週間後のスロープスタイルの出場を目指していた

 近藤 ビッグエアで右ヒザを痛めてしまったけど、治療のおかげで思ったよりも早く滑り出すことができました。コースのレベルが今までのW杯よりもはるかに高くて。それに外の競技なので、天候が荒れてしまうと自分の技や滑りを出し切ることが難しい状況でした。少し転倒してしまうと、ものすごい体にダメージがあったので、そこをコントロールするのが難しかったです。

 ――スロープスタイルの公式練習中に再び右ヒザを負傷。前十字靱帯断裂と半月板損傷の大ケガだった

 近藤 公式練習が3日間あって、3日目のあとラスト1、2本というところでのケガでした。転んでしまった時は痛みで何も考えられなくて、救急車に乗った時くらいに「もうこれで多分私出られないんだな」と感じました。脚が全く動かない感覚でしたし、今までのケガの中で一番痛みが強くて、ヒザの中がどうなっているんだろうという恐怖に襲われていた。「私の五輪が終わっちゃったんだな」という絶望感がありました。

北京五輪での活躍を期していた近藤だが…(本人提供)
北京五輪での活躍を期していた近藤だが…(本人提供)

 ――北京五輪特有の「人工雪」の影響も大きかったのでは

 近藤 あったと思います。今まで勝ち進んできて五輪にも何度も出ている選手も「すごく怖い」と言っていましたし「一度転んでしまうと、もう次は滑れない」というようなネガティブなワードが飛び交っていたので、五輪初出場の選手たちは特に難しかったと思います。

 ――気持ちは切り替えられたのか

 近藤 日本に帰国して、ヒザの腫れが引くまで手術できなかったのですが、その間は少し現実逃避をしていました。あまりに向き合いすぎると、サポート、応援してくれた人たちに申し訳ないという気持ちで自分が押し潰されそうだったので、家から出ていなかったと思います。今もあまり覚えてないくらいショックで、現状から逃げていた状況でした。

 ――ヒザの手術を4月に、脱臼癖のあった肩を8月に手術。リハビリは壮絶だった

 近藤 最初の方は痛いけど、固まらないように動かさないと今後それが影響してくると伝えられていたので、痛みに耐えながら力を入れるのがつらかったです。それにヒザの手術から数か月たって、いろいろトレーニングが再開できる時期に肩を手術したので、ヒザのリハビリが止まってしまい、定期的に受けた筋力測定の数値が上がらなくなってしまいました。コツコツ続けていてもなかなか成果が出なかったので、モチベーションを保つのが難しかったです。

過酷なリハビリに取り組んだ近藤(本人提供)
過酷なリハビリに取り組んだ近藤(本人提供)

 ――母・聖子さんの言葉に救われた

 近藤 いろんな人たちの言葉が私の助けになりましたが、私からネガティブな言葉しか出てこなかった時に、お母さんはそれをすごくプラスに変えてくれました。「今やってることは、他の人だったらできないんじゃないかな」とか、私からは出てこないけど欲しかった言葉が返ってきて、何度もそういうプラスな言葉をかけてくれました。

 ――昨年末には約10か月ぶりに雪上へ戻った

 近藤 今までは1年中(スキー)板を履いていたので、自分の感覚が戻ってこないかなと思って、最初は不安でした。でも意外と板を履いて滑ってみたら、ちょっとへたくそかなと思いながらも、感覚的に全然違和感がなく滑れた。思ったよりできたといううれしい気持ちと、やっぱりスキーが楽しいという気持ちがありました。

 ――3年後の五輪でリベンジしたい

 近藤 数か月前くらいまではミラノ五輪のことは考えられなかったです。出たいけど、メダルを取るという目標を口に出せませんでした。でも、もう実現するかどうか分からなくても、とにかく口にしていくこと、もう計画を練っていかないと絶対に後悔してしまうと思いました。もうやれるだけやったら絶対に出場できるし、決勝にも残れるというポジティブな未来が見えてきたので、今は2026年の五輪でメダルを持って日本に帰りたい。それが夢ではなく、ちゃんと目標として自分の中で掲げ続けられるようにしたいです。

(インタビュー・中西崇太)

 ☆こんどう・ここね 2003年2月19日生まれ。長野県出身。スキー選手だった両親の影響で3歳からゲレンデを滑り始める。小学5年生時に冬季五輪選手の養成を目指す長野県の「SWANプロジェクト」に応募して合格。本格的に競技をスタートさせた。15歳で国際大会デビューを果たすと、20~21年シーズンのW杯で7位に入り、翌21~22年のW杯では自己最高の5位となった。好きな歌手は「back number」で「花束」がお気に入り。