巨星墜つ――。プロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(本名猪木寛至)が1日朝、都内で死去した。79歳だった。力道山の弟子として故ジャイアント馬場さんと並び日本プロレス界を築き上げ、リング上では数々の激闘を演じてファンを沸かせた。ボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの〝世紀の一戦〟も実現させた「燃える闘魂」は最期までプロレスラーとして戦い続け、波瀾万丈の生涯を終えた。
横浜生まれの猪木さんは13歳でブラジルに移住。サンパウロを訪問した日本プロレス界の祖・力道山に見いだされ、1960年に帰国。同年9月に日本プロレスでデビューした。同日にデビューしたのが馬場さんで、二人のライバル物語は馬場さんが99年1月に亡くなるまで続いた。
猪木さんは若手時代に力道山の付け人を務め、師匠の最期に立ち会った弟子としても知られている。生前には「オレが力道山先生を(病室で)殺した…なんてバカな噂もあったんだよ」と真顔で語っていたこともあった。
64年から米国修行に出たが、66年に帰国した際には日プロを離脱して東京プロレスに参加。だが東プロがわすか3か月で崩壊すると、すぐに日プロに復帰した。日プロでは馬場さんと史上最強コンビ「BI砲」を結成して活躍。シングルプレーヤーとしても世界の強豪と激闘を展開した。
71年には団体の組織改革を求めたが、紛糾し日プロを追放されると新日本プロレスを設立。覇権をかけて馬場さんの全日本プロレスと激しく争った。リング上ではタイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンら世界の怪物たちと死闘を繰り広げた。
猪木さんの名を一躍世界中に知らしめたのが、76年6月26日に日本武道館で行われたアリ戦だ。プロレス王者対ボクシング現役世界ヘビー級王者の異種格闘技戦を実現させ、プロレスの地位を一気に向上させた。試合はがんじがらめのルールで消化不良に終わった上に、猪木さんは数十億円の借金を抱えたとされる。しかし、柔道王ウィリエム・ルスカ、極真空手の〝熊殺し〟ウィリー・ウィリアムス、キック王者モンスターマンらとの異種格闘技戦は後のマット界に大きな影響を与え、日本の総合格闘技の礎となった。
次代を担う人材も育成した。藤波辰爾、長州力、藤原喜明、初代タイガーマスク(佐山聡)、前田日明、高田延彦、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、藤田和之、小川直也…。個性豊かな弟子たちとリング内外でぶつかり合うことも辞さず「猪木イズム」を叩き込んだ。
プロデューサーとしても86年にマサ斎藤との「巌流島の決闘」、89年に旧ソ連勢「レッドブル軍団」招聘、95年には北朝鮮で「平和の祭典」開催と大がかりな〝仕掛け〟で世の中の目をプロレスに向けさせた。98年4月4日の引退試合では東京ドームに7万人の大観衆を集めた。引退後はPRIDE、K―1を中心に格闘技マットにも進出。「オレの中ではプロレスと格闘技の線引きはない」と言い切り、マット界の中心であり続けた。
リング外では政治活動に積極的に参加し、参議院議員を2期務めた。「スポーツによる平和外交」をうたい、90年には湾岸戦争でイラクの人質解放に尽力、北朝鮮にも独自ルートで接触を続けた。また「アントン・ハイセル」「永久電池」「キューバの海に沈む財宝発見」「水から石油を精製」などなど夢のある事業に取り組んだが、こちらは結果が出なかった。
一方で参議院議員1期目時の告発トラブル、金銭トラブルなど、スキャンダルな話題でも世間をにぎわせた。毀誉褒貶の人生。それでも「元気があれば何でもできる」と、闘魂ビンタと「1、2、3、ダーッ!」のパフォーマンスを武器に世の中を引きつけた。
猪木さんには確固とした信念があった。社会に根強くある「プロレス=八百長」論。どんなに批判を浴び、見下されても燃える闘魂は逃げずに偏見の目と戦い、「プロレスは戦いだ」とひたすら抗い続けた。猪木さんは生前、こう語っていた。
「俺はパキスタンとかアリ戦もしかり、そういう命を置いてでも勝負をしてきたんだ。もしかしたらそこまでする必要ないと思うかもしれない。競技として考えればね。でも、そういう時代背景の歴史を知っている部分と、プロレスが受けてきた〝差別〟というか。要するに大相撲だったり、野球に八百長問題が出ると、すぐプロレスが引き合いに出されて。その時は『てめえら見てろよ』みたいな。誰に怒ってるかわからねえけど、自分なりの世間との戦いだったというか」
最後まで闘い続けた壮絶すぎる生涯だった。














