【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(33)】2014年、昇竜館館長をクビになった俺は中日ドラゴンズを退団した。1978年にドラフト外で入団してから36年間、選手、コーチ、スカウト、昇竜館館長としてお世話になってきた球団だ。それまでずっとドラゴンズ一筋ともいえる人生だっただけに、正直心にポッカリと穴があいたような気持ちになった。
それでもありがたいことにいろんな方が俺のことを心配してくれて就職の世話をしてくれた。お寺の事務所や葬儀会社、給食サービス、ゴルフ場に建築会社など様々な仕事を経験させてもらったけど、そんなときに思いもよらないことが起こった。女房が病気になってしまったのだ。がんだった。
女房とは高校2年生のころから付き合っていてずっと一緒だった。明治大野球部でプレーしていたときには神宮球場の前で試合が終わるのを待っていてくれた。ドラゴンズに入ってからも常に俺を支えてくれた。2人の変わらない日常がずっと続いていくと思っていただけにショックは大きかったけど、誰よりもつらいのは女房だ。だけど彼女は決してあきらめなかった。神戸にいいお医者さんがいたのでそこで診てもらった。手術のため何度も入退院を繰り返したけど決して弱音を吐くことはなかった。
17年3月に俺は久しぶりに星野仙一さんに会った。この年の1月に星野さんの野球殿堂入りが決定。星野さんの後援会「仙友会」が主催したパーティーが名古屋で開かれ、星野さんをお祝いしようと多くの関係者が集まった。星野さんは俺たち夫婦の仲人でもある。女房のこともかわいがってくれていたから2人だけになったとき、「実は女房が、がんになったんです」と報告した。それを聞いた星野さんは「うん」と言ったきりノーリアクション。それ以上そのことについては話そうとはしなかった。何だかその話題には触れたくないような、おかしな感じがした。そしてこれが俺が星野さんと会った最後の日となった。
18年1月、明治大の同期で中日でもチームメートだった高橋三千丈から突然、電話がかかってきた。「ニュース見たか。星野さんが亡くなったって!」。まさに青天のへきれきだった。パーティーで会った時はあんなに元気だったのに…。死因は膵臓がんだった。星野さんは16年からがんと闘っていた。身内とごくわずかな人にしか自分ががんになっていたことは知らせていなかったという。
俺も女房も涙が止まらなかった。女房のがんのことを話したとき、星野さんがまったくその話題に触れようとしなかったのは、自分もがんと闘っていることを知られたくなかったからなのかもしれない。
たくさんたくさん怒られたけど俺は星野さんのことが大好きだった。あんなに勝負に熱くなる人、あんなに野球が好きな人、あんなにドラゴンズを強くすることに一生懸命になった人はいなかった。星野仙一さんに出会えたことは俺の人生の中でも最高の宝物になっているよ。
☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。












