【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(26)】 1994年、高木監督3年目のシーズンは日本プロ野球の歴史に残るペナントレースとなった。首位・巨人に最大10・5ゲーム離されていたドラゴンズだが、9月に9連勝するなど快進撃。中日投手陣には今中と山本昌というダブルエースがいたし、本塁打と打点王に輝いた大豊や、この年から3年連続首位打者になったパウエルら攻撃陣のタレントもそろっていた。そして129試合目が終わった時点で中日と巨人は69勝60敗で並び、シーズン最終戦(10月8日、ナゴヤ球場)の直接対決で勝った方が優勝となったのだ。

 この展開には名古屋だけでなく日本中が大騒ぎとなった。10月8日にフジテレビ系列で放送された中日―巨人戦の視聴率は関東地区で48・8%、名古屋地区では何と54・0%(いずれもビデオリサーチ調べ)を記録した。俺はこの年は二軍打撃コーチだったが、10・8決戦には二軍の監督、コーチ、選手、スタッフもみんなナゴヤ球場に駆けつけた。勝てばドラゴンズ奇跡のVだ。チーム全員で優勝を祝う予定だった。

 ナゴヤ球場の食堂でみんなでテレビを見ていたけど、うーん、やっぱり巨人は強かった。前年オフにFAで巨人に移籍した落合さんが2回に中日先発・今中から先制ホームラン。落合さんは2―2の3回にも勝ち越しの適時打を放ち、大一番で4番の務めをしっかりと果たした。中日打線も必死に食らいついていったけどリリーフに斎藤、桑田をつぎ込んだ巨人・長嶋監督の執念の投手リレーにかわされて3―6の敗戦。長嶋監督が「国民的行事」と呼んだ世紀の一戦はミスターの胴上げで幕を閉じた。

 試合後、二軍も含めた全スタッフが食堂に集められた。シーズン最終戦ということもあって高木監督があいさつしたんだけど、そこで「辞めるから」と言ったんだ。負けた責任を取るつもりだったんだろうね。(高木)守道さんのこの言葉を聞いた選手の中には泣き出す者もいた。選手会長の川又が「もう1年やってください」と高木監督にお願いしていたよ。他の選手もきっと同じ気持ちだったと思う。

 結局、高木監督は加藤巳一郎オーナーからの強い慰留を受けて翌年も指揮を執ることになったんだけど、4年目のシーズンとなった95年は故障者が続出したこともあって開幕からチームは低迷。高木監督は成績不振の責任を取って6月2日の阪神戦(甲子園)で退任。しかもこの試合では審判に暴行を働いて退場となった。徳武ヘッドコーチが代わりに指揮を執ったが、チーム状態はさらに悪くなって徳武さんもシーズン途中で解任された。後半戦からは島野二軍監督が監督代行となり、島野さんと一緒に俺も二軍から一軍に配置転換となった。

 島野さんが一軍監督代行となったのは翌年以降の新たな体制を見据えてのもの。シーズン終了後、中日球団が監督に招聘したのは91年以来5年ぶりの監督復帰となった星野仙一さんだった。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。