【取材のウラ側 現場ノート】野球殿堂入りした星野仙一氏(69)の代名詞は「闘将」「燃える男」。キャッチフレーズは「ハードプレーハード」、色紙には「夢」、そして旗印は「打倒巨人」。1986年秋に誕生した第1次星野中日。当時、記者は入社1年目の22歳、監督は39歳。そこから30年以上が経過したが、驚くべきは、その監督のイメージが40代でも50代でも60代でも全く変わらなかったことだろう。

 87年、ドジャースモデルのユニホームに変えて臨んだ後楽園球場での開幕巨人3連戦。大方の予想が開幕投手・小松だったなか左腕・杉本を先発に起用したが、黒星スタート。鈴木孝が先発した2戦目も敗戦。3戦目、小松が先発して記念すべき星野中日1勝目となった。このローテーションについてあのころ、よく言われたのが、たとえ連敗しても小松が必ず止めてくれると考えていたということ。でも、監督の頭の中はそうではなかった。「あれは俺が色気を出したんだ。3つ勝ってやろうとね」。巨人には全部勝ちたい。その気持ちが先だった。それは当時の竜ナインにも伝わっていた。選手を育てるために鉄拳もあったが、50歳まで現役だった山本昌をはじめ、誰もがそれにも感謝している。

 86年オフ、星野監督はロッテ・落合と中日・牛島、上川、桑田、平沼の1対4の世紀のトレードを成立させたが、その背景にも3冠男・落合を巨人に獲られたくない思いがあったのはあまりにも有名だ。「グラウンドは戦場、ユニホームは戦闘服」「俺にはドラゴンズブルーの血が流れている」…。いつも熱い言葉がスラスラと出てきた。記者にとって特に印象深いのは「俺は365日、戦力補強のことを考えている」だ。

 星野監督の口から、この言葉を最初に聞いたのは落合トレードが実現したころ。以来、多くのトレードがあった。それはまさに選手を生かすためのもの。「俺がトレードに出した選手が、よそで監督になったんだからな」。日本ハムの監督になった大島氏、横浜の監督を務めた牛島氏。ほかにも他球団で成功した選手は数多い。言うまでもなく、その功績は大きい。

 現在、楽天球団の副会長としてだけではなく、野球界全体の発展のために、いろいろなプランを持っているという。すでに大学の野球部監督たちを自宅に招待してコミュニケーションをとっているし、将来は子供たちのための野球アカデミーづくりなどの夢もあるそうだが、記者は再びユニホームという戦闘服も着てほしいとも思う。こればかりは相手があることとはいえ、その日を待ち望んでいる人もまた多いはずだ。(山口真司)