【平成球界裏面史 近鉄編42】平成27年(2015年)の9月、最後の近鉄バファローズ出身選手となる坂口智隆は、合併球団のオリックスバファローズを退団することになった。事実上の戦力外通告の形で大幅減俸か自由契約を迫られる屈辱の経験だった。
坂口は即断で退団を申し入れた。「必要とされてプレーしたい」という一心で、引退のリスクも知りながら自ら判断を下した。オリックス球団はシーズン終了直前の10月1日に坂口の退団を発表。この発表を受け、複数の球団が坂口の調査に乗り出した。
本当に行くあてがあったわけでもない。そんな中でいち早く動きを見せたのはヤクルトだった。その当時のヤクルトには、坂口の技術や野球への取り組み、性格などを知り尽くした人物が在籍していた。
それは平成14年(2002年)、近鉄のドラフト同期だった阿部健太(松山商から近鉄、オリックス、阪神、ヤクルト)スカウト(主に関西担当)だ。水面下で坂口の動向を調査し、早い段階で球団に獲得を進言した。元近鉄の絆がここで生きた。
複数の球団が坂口の獲得に動いた。だが、最も動きの早かったヤクルトが坂口獲得に成功し11月13日に契約合意。推定年俸はオリックス在籍時から4500万円減の3000万円で契約する流れとなった。
当時の坂口は「お金うんぬんの問題じゃない。最初に声をかけてもらったんで。必要としてくれたヤクルト球団にお世話になると決めました」と即決。背番号は「死に」を連想させ日本人からは敬遠されることが多い「42」を選択した。
この「42」について坂口は「おばあちゃんに相談したら『野球選手のような特殊な仕事をしているのだから、人と違うことをしなさい』と言われたから42を選んだ。他にもっといい番号も用意してもらったけどすぐに決めた」と説明している。
ただ、この理由にはもう一つのエピソードも存在する。坂口が近鉄時代から交流のある人物が神戸市内で営んでいたスポーツダイニングの屋号が偶然にも「42」。黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの背番号から取った屋号なのだが、MLB全球団永久欠番ということもあり新天地での背番号として迷わず「42」を選んだ。
オリックスで思い悩んだ日々、このスポーツバーで思いの丈をぶつけたこともあった。だが、必ず最後には前向きな気持ちで野球に向き合おうとスイッチを入れて家路に就いていった。
ヤクルトへの入団発表前にオフレコで背番号「42」を選択した事実を「42」の店主に報告した。すると「42って縁起悪いけど大丈夫?」と返された。それを聞いた坂口は「何言ってるんよ。この店の屋号やん。ここは喜ぶとこちゃうの」とツッコミを入れた。後に同店にはユニホームを寄贈し、その後もオフには自主トレの合間に来店し続けた。
古巣での苦境から新天地での復活へ完全に頭をシフトした坂口。初の東京、セ・リーグという環境で〝最後の猛牛戦士〟はV字復活を見せることになる。














