【ダンプ松本の壮絶人生「極悪と呼ばれて」:連載14】「3か月で逃げてくる」と罵倒されながらも、私は1988年3月から芸能界に進出した。まず大森ゆかりと「桃色豚隊(ピンクトントン)」というユニットを組んでシングルCDを出した。作詞は天下の秋元康さんだぜ。さぞかし売れただろうって? 売れるわけねえだろ、そんな名前でよ(笑い)。

 でも仕事はひっきりなしにいただいた。最初の5年間なんて寝る間もなく働いた。バラエティーに出たり、舞台に出たり、CMに出演したり…。手取りで月給100万円は稼いでいた。周囲からは「もっともらっていいんじゃないか」と言われていたけどな。この時期に大女優の野川由美子さん(75)の舞台に何度か出させていただいて、演劇の世界の面白さを学んだ。だから野川さんには今でも感謝している。何人かの演歌の大御所の舞台にも呼ばれた。リング同様、お客さんと生の勝負ができる舞台は、性質的に合っていたのだろう。プロレスとは違う充実感を味わっていた。

 芸能界に入って1年もたたない時期、私に罵声を浴びせた全女のスタッフから、仕事の依頼があった。聞けば当時売り出し中の「ファイヤージェッツ」(堀田祐美子、西脇充子)のイベントを盛り上げたいという。コイツ、どの面下げてノコノコ来てるんだ? 激怒した私は「3か月もたないって言ったよね?」と問い詰めた。すると「本当に申し訳ありませんでした…」と頭を下げてきた。その瞬間「勝った!」と思ったね。

 芸能界で3年目を迎えた時は、テレビカメラも呼んで目黒の全女の事務所の前で「バンザ~イ」と、これ見よがしにマネジャーとビールかけをやってやったぜ。誰も出てこなかったけどな。

 芸能活動は順調に進んでいたが、10年目を迎えた98年に所属した事務所のマネジャーが借金を抱えたまま蒸発してしまう。未払いのギャラは500万円を超えていた。本当に経営者に恵まれない人生だと痛感した。新しい所属事務所が決まったころ、全女のOG戦開催(8月14日、川崎市体育館)の話が持ち上がった。私は大森らと発起人になり、約10年ぶりに一夜限りの現役復帰を果たす。この時期からプロレスへの情熱が少しずつ戻り始めていた。人間関係で引退しただけであって、もともとプロレスが嫌いになったわけではなかった。

 芸能活動で食うに困ってはいなかった。しかし97年に全女が倒産し、2000年に入ると苦しい状況で興行を続けていたことは気になっていた。そして03年5月、35周年記念大会(横浜アリーナ)を機に(松永)高司さん(全日本女子プロレス会長=故人)から「極悪同盟を再結成したい。コーチ役として巡業に帯同してくれ」と要請を受ける。恩人が頭を下げているんだ。プロレスへの情熱が戻り始めていた私は快諾し、一度芸能活動を停止してプロレス界に復帰した。

 ところが、これは高司さんのワナだった。北海道巡業13大会にコーチとして帯同すると、全試合のメインに名前が入っていたのだ。引退から15年、またまた松永一家にダマされる格好で、私は本格的に現役復帰を果たす。そうして年50試合のペースで現在に至っている。

 今年はついにデビュー40周年。そして還暦を迎えるが、生涯現役を貫こうと思っている。クラッシュギャルズともう一度リング上で再会したい――その夢があるからだ。

☆だんぷ・まつもと=本名・松本香。1960年11月11日、埼玉・熊谷市出身。80年8月8日、全日本女子プロレス・田園コロシアムの新国純子戦でデビュー。84年にヒール軍団・極悪同盟を結成してダンプ松本に改名。長与千種、ライオネス飛鳥のクラッシュギャルズとの抗争で全国に女子プロ大ブームを巻き起こす。85年と86年に長与と行った髪切りマッチはあまりに有名。86年には米国WWF(現WWE)参戦。88年に現役引退。タレント活動を経て2003年に現役復帰。現在は自主興行「極悪祭り」を開催。163センチ、96キロ。

(構成・平塚雅人)