急死の高木守道氏を悼む 名古屋の街を代表して10・8決戦ありがとう

2020年01月18日 16時30分

華麗なバックトスが代名詞だった高木守道氏(1973年)

 2006年に野球殿堂入りした、元中日監督の高木守道氏が17日に急性心不全のため死去した。78歳だった。最近もラジオ出演をこなしており、関係者に衝撃が広がった。現役時代は21年間で2274安打を放つなど、俊足巧打の名二塁手として活躍した。監督時代は1994年に巨人と激しい優勝争いを演じ、敗れたものの「10・8決戦」は語り草となっている。当時を取材した本紙担当記者が悼んだ。

 突然のことに驚いている。先月、立浪和義さんの殿堂入りを祝うパーティーでお会いしたときはあんなにお元気だったのに…。

 94年に名古屋に転勤してドラ番になったときの監督が高木さんであった。この年は開幕から巨人が独走し、7月にはドラゴンズかいわいはストーブリーグに突入。権藤博氏、星野仙一氏など次期監督候補の名前が各スポーツ新聞紙上で躍った。

 当然ながら東スポ紙上でも高木監督にとって面白くない記事がたびたび掲載されたのだが、ご本人から嫌な顔をされたことは一度もなかった。知人に頼まれてサインをお願いしたときも「私でいいの? 次の人(星野仙一氏を指していた)のサインの方がいいんじゃない」と冗談っぽく笑いながら色紙にペンを走らせてくれた。

 ある新聞に「ダイエーの監督に就任する王貞治氏が高木監督をコーチに招き入れるプランがある」といった内容の記事が出たときも「王さんから何も聞いてないよ。そんな話があったらうれしいけどね」と笑顔で答えてくれた。シーズン中なのに話題は次の監督のことばかり。きっと内心は複雑だったと思う。でも高木監督がマイナスの感情を記者にぶつけることはほとんどなかった。

 7月には首位・巨人に10・5ゲーム差をつけられ、8月には8連敗で借金生活に突入して誰もがドラゴンズは終わったと思った。だがそこから驚異的な反撃を開始。9月28日には同率首位に並び、伝説の「10・8決戦」を迎える。

 結果はご存じの通り、槙原、斎藤、桑田の3本柱を投入した巨人が勝利し、長嶋監督が宙を舞った。最多勝の山本昌、最優秀防御率の郭源治を温存したまま敗れた高木采配に対しては、いろいろな声が湧き起こったが正直、自分はあの試合の継投や勝ち負けのことは「10・8決戦」という国民的行事を生み出したことに比べればさまつなことだと思う。

 94年9月末から10・8に至るまでのワクワクドキドキ。名古屋の街があんなに盛り上がり、あんなに沈んだことはなかったし、きっとこれから先もないと思う。あれほどの興奮、感動、落胆を味わわせてくれたのは間違いなく高木監督が指揮を執ったドラゴンズの奇跡的な追い上げがあったから。

 監督、ありがとうございました。あなたは間違いなくドラゴンズの歴史に残る名監督でした。

(中日担当・宮本泰春)

 ☆たかぎ・もりみち 1941年7月17日生まれ。岐阜県出身。60年、県岐阜商高から中日に入団。盗塁王、ダイヤモンド・グラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を各3度、ベストナインを7度獲得し、74年のリーグ制覇に貢献した。80年限りで引退後は92年から95年途中までと12、13年の2度監督を務めた。06年に野球殿堂入り。通算成績は2282試合で2274安打、236本塁打、813打点、369盗塁、打率2割7分2厘。監督では86年の代行も含めて7シーズン、787試合で383勝379敗25分け。