【元局アナ青池奈津子のメジャー通信】今回は、この場を借りて懐かし話と、個人的な感謝の意を松坂大輔さんに表したい。

 今でこそ在米歴も大リーグ取材歴も15年と長くなったが、当初私はどちらにもさほど興味がなかった。いい意味で、中立だったのだと思う。日本テレビの「ズームイン!!SUPER」という番組で現地リポーターを募集しているから面接を受けてほしいと言われた時もさほどプレッシャーに感じなかった。

 むしろ力不足で決まらないだろうと思っていた。ただ、仕事を持ってニューヨークに住めるのは魅力的で、フリーランスの身にこのようなチャンスは二度と来ないだろうとの思いから一歩を踏み出した。あの瞬間、人生が180度回転した。

 時は、松坂さんのメジャー移籍話題で持ちきり。松坂世代と呼ばれる私たちの長が、大リーグへ行く。そこに縁とか引力を感じなかったと言ったらウソになる。

 正直、野球取材は過酷だ。選手らのスケジュールが取り沙汰されるが、それを追う報道陣はコマーシャルフライトで移動し、私のような情報番組のテレビリポーターは、ニュースやインタビューを追いかけ、毎日移動があったりする。出張が長引いて、下着を買い足したことも多々。ナイターだと試合は午後7時からだが、午後2時半ごろに球場に入り、帰りは必ず翌日になる。

 日本テレビの仕事だったため、メインは松井秀喜さんの動向を追うのが任務だった。一番通った当時のヤンキー・スタジアムは、まだ今の新球場のように記者席が広くなく、テレビクルーは余っていた古い選手ロッカーの一室をあてがわれ、ブラウン管の小さなテレビで試合中継を見ていた。

 ほぼ紅一点。女子高校出身でキャッチボールもろくに経験のない私は、世間知らずもいいところ。囲み取材で何をどう質問していいか分かるはずもなく「空気を読め」との無言の威圧感、ただ後ろで立っていても「顔がニヤついていた」と怒られたし、面と向かって嫌みなんてしょっちゅう。現場が怖かった。慣れない海外暮らしにも嫌気が差し、頭に500円サイズのハゲができた時はさすがにショックだった。

「野球なんて嫌い」

 当時のつらさの半分は、野球に対する恨みになっていた。しかし、もう半分は、松坂さんを始めとするレッドソックスの選手らに救われた。

 2007年は空前の松坂ブーム。気がつけば担当のヤンキースよりボストン出張が入っていたが、実は松坂さんに対して日本テレビが許されていたのは運よくコメントが取れたら放送してもいい「ぶら下がり取材」だけだった。松坂さんはそれをよく知っていた。

 今でも忘れない。初の地区優勝の瞬間。「優勝するまでニューヨークに戻るな」と番組にカメラを渡され、折れそうな気持ちギリギリでボストン待機する中、松坂さんがクラブハウスからフィールドで待つファンの元に猛ダッシュする様子を後ろから追った。長い選手通路を抜け、階段を駆け上がった先で、松坂さんが大きなガッツポーズ。球場からあふれんばかりの大声援を浴びた。カメラど素人の私は逆光でシルエットしか見えないのだが、もうどうでも良かった。この仕事していて良かった。日本人で良かった。すごくかっこ良かった。

 字数が許すなら、まだいくらでも書きたい。メジャー通算8シーズン、互いにチームや仕事が変わったが、メッツ時代は少しゆっくり会話する機会もあった。私は2年の予定だった滞在が気づけば15年。大陸横断までしてしまった。夢は見るものではなく、かなえるものだと彼から教わった。

「松坂がメジャーに行くから」で始まった波瀾万丈なアメリカ人生。心底面白い。

 親切にしてくれてありがとう。普通にしてくれてありがとう。