夏も咲かせる磐城の桜 71年準VのOBがエール

2020年04月07日 11時00分

49年前の夏を語る松崎氏

【気になるアノ人を追跡調査!!野球探偵の備忘録(101)】誇り高きコバルトブルーの精鋭たちなら“あの夏”を必ず再現できる。第92回選抜高校野球大会の21世紀枠で選出されながら開催中止で涙をのんだ磐城(福島)に対し、母校OBたちが今も力強いエールを送り続けている。1971年夏の甲子園で準優勝した当時の主力メンバー・松崎浩さん(66=前OB会長)もその一人だ。エネルギー革命期、閉山が決まった炭鉱の町から聖地へやってきてつかんだ準V。日本中が酔いしれた49年前の夏を追った。

 球児たちにとってはあまりにもつらく、残酷な決断だった。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、今春のセンバツは無観客での開催方針を覆して史上初の中止が決定。21世紀枠で46年ぶり3度目の出場を果たすはずだった磐城の面々にも大きな衝撃が走った。

 だが、社会情勢を考慮すればやむを得ないことは誰もが分かっている。だからこそショックの色を隠せない中でもチーム内から「ここで積み重ねた練習は絶対夏につながる」との声が響き渡り、選手たちは必死に前を向こうとしている。前OB会長の松崎さんも落胆する気持ちをあえてのみ込み、こう言い切る。

「我々の時のように“夏に強い磐城”を見せてほしい。彼らならば乗り越えて、それができると思う」。今春、木村保監督が離任し、いわき光洋高から赴任した渡辺純監督が新たに指揮を執り、1995年以来25年ぶりとなる夏の甲子園出場を目指す。

 71年夏のコバルトブルー旋風も、思えば磐城は「困難」に直面した中での出場だった。

 この時、磐城は地元の常磐炭鉱が閉山に追い込まれてからの甲子園。安価な石油の流入によるエネルギー革命の波にのみ込まれ、日本の石炭産業が衰退していく激動の時代だった。水島新司の野球漫画「ドカベン」で主人公の対戦相手・いわき東のモデル校となったのも当時の磐城だ。実際のところ常磐炭鉱は常磐興産と社名を変えて開業した常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を社員の受け皿にしていたため、家族が路頭に迷うようなことはなかったという。

「野球部員の中にも家族が何人か鉱山で働いていた人がいましたが、常磐炭鉱はきちっと転職を考えてくれていた。でも、このころは社会現象として炭鉱の縮小、閉山に向けた動きがありましたからね。だから社会的なショックが大きい時代での出場でした」と同校野球部で「5番・右翼」の3年生レギュラーだった松崎さんは述懐する。

 71年夏は2年連続4度目となる聖地出場。しかし、それまでチームは前年秋から低迷にあえぎ、何とかつかみ取った甲子園行きの切符だった。

「(予選は)シード校でもなかったから世間からの期待度はめちゃくちゃ低かった。そういう静かな環境でしたね、最初は」

 それが初戦で優勝候補の日大一(東京)を下すと、波に乗っていった。

「1試合、1試合、勝つごとに選手の意識が上がっていった。だから究極的にはゾーンにまで入ったんじゃないかと思うんです」

「165センチの小さな大投手」と呼ばれたエース・田村隆寿さんの快投もあり、静岡学園(静岡)、郡山(奈良)と強豪校を次々と破り、ついに決勝の舞台へと上り詰めた。相手は桐蔭学園(神奈川)。惜しくも0―1で涙をのんだが、満員のスタンドから優勝した相手以上の拍手と大歓声を送られていることに気付いた。コバルトブルー旋風が日本中を感動の渦へと巻き込んでいたのだ。

「ある人の話だと『球場の3分の2ぐらいが磐城高校の応援だった』と言ってくるぐらいだった」

 地元に帰るとオープンカーに乗り、いわき市南部の勿来(なこそ)地区から平地区までの国道を30キロ以上にわたって凱旋パレードも行った。「高校生としてはあり得ない光景。当時としては私ら、なんとなくこれが恥ずかしくてね。こういう地味なチームだったんで」と松崎さんは照れくさそうに振り返った。

 その後、いわき市は天災という「困難」に相次いで直面した。2011年の東日本大震災と福島第1原発の事故で甚大な被害を受け、昨年夏には台風19号の直撃によって被災。自宅が損壊してしまった部員もいたが、ボランティアに励むなどチームは地域の人たちと一体になって復興に取り組んだ。

「自分たちだけで野球はできない。地域の周りの方々に応援される魅力ある高校だから今があるという認識を彼らは持っている。だから私は乗り越えられる力があるなと。逆に夏、勝ってくれるんじゃないかと思う」

 コロナショックに巻き込まれる世界のすう勢は誰にも分からない。それでも松崎さんは今夏、後輩たちに地元だけでなく日本中へ活力を与えるコバルトブルー旋風の再来を期待している。