【越智正典 ネット裏】昨年、素晴らしい1年を終えた大谷翔平とエンゼルスが新しい春を迎えた。

 アメリカでは今でもまだ、大谷の二刀流とベーブ・ルースの二刀流を比べる話で持ち切りだそうだが、いい話がたくさん生まれるのが楽しみである。

 ベーブ・ルース。ジョージ・ハーマン・ルースは1895年2月6日、アメリカ・メリーランド州ボルチモアで生まれた。95年は下関で日清戦争の休戦条約が調印された年である。

 実はベーブ・ルースが誕生したのは94年だと長い間、家中でそう思われていた。父親はドイツ系でJ・ハーマン・ルース。母親はアイルランド系でケイト。違う…とわかったのは1934年に読売新聞社主催の第2回日米野球で訪日するために旅券を申請したときだった。これだけでもベーブ・ルースの生い立ちがどうであったか、想像しても大きく違わないだろう。

 左投げ左打ち。身長185センチ、体重97・5キロ。おデブちゃんだったのが日本で受けた。
 市岡中学(高校)から早大に18年に入学、第5代早大監督になる田中勝雄は「ベーブ・田中」と呼ばれた。

 戦後、名教中学(東京・港区高輪)、慶大、ライトで4番の高橋久雄は47年春の東大1回戦と2回戦でホームランを打った。粗悪球でボールが飛ばない時代である。

 東大のピッチャーが山崎喜暉(旧制静岡高校)だったのもすごい。山崎喜暉が言っていた。

「東大が強いのは当り前さ。部員は戦争中は平均陸海軍中尉。みんな死線を超えて来たんだ!」

 東京六大学の学生席では彼が少しおデブちゃんだったので「慶応のベーブ・ルース」と呼んでいた。

 49年主将。秋に優勝。大任を果たした。閉会式。天皇杯を授与された。高橋久雄にも名セリフがある。早大に勝って優勝を決めたときである。(8対6、3対12、4対2)。

「試合の終了を告げるサイレンの音は澄んで清かった」(慶応義塾野球部史)

 50年春卒業、鐘紡に入社している。

 ルースは23年、MVP。ヤンキースで41本塁打、131打点をたたき出した年である。36年、米殿堂入り。48年8月16日、ニューヨークで亡くなった。53歳。一度は本格的に監督をやりたかったと聞く。お話ししてきたのは略歴である。

 34年、来日したときに多くの名セリフを残している。

 宿舎帝国ホテルのルースの部屋付きだった神港商業―法政大のマネジャー・徳永喜男(サンケイ、ヤクルト代表)が言っていた。徳永が部屋付きだったのは日本球界あげて歓迎していたのだ。

「朝、ベーブ・ルースのスパイクを磨いていると“スパイクは自分で磨くよ。磨かなくていいよ。ありがとう”と言ったのです。教えられました」

 ベーブ・ルースが見事な二刀流をやってのけたのは、そのヤンキースに移籍(20年)する前のボストン・レッドソックスのときである。=敬称略=