ジャパンプロレス時代の1987年、長州(力)さんは新日本プロレスにUターンすることを画策。提携していた全日本プロレスの「エキサイトシリーズ」(同年2月開幕)を右手首のガングリオン(コブ状の腫瘤)のため欠場すると発表しました。実際は仮病で、長州さんは群馬の伊香保温泉にいました。

 長州さんが古巣に戻ろうとした理由の一つに全日本のファイトスタイルに合わなかったのもあると思います。あとは、大相撲の元横綱・輪島(大士)さんが86年4月に入門してきたことも大きかったと思います。

 天下の横綱。同11月1日に地元の石川・七尾総合市民体育館大会でデビューしてスポットライトが当たったことが、長州さんからしたら面白くなかったのかなと。輪島さんが東スポの1面を飾って、長州さんがその紙面を見てビリビリに破いたこともありました。

 長州さんは古巣へのUターンがささやかれていた中で、87年3月23日に東京・世田谷区池尻のジャパン本社で記者会見を開き、全日本プロレスからの離脱と独立を宣言しました。その2日後の25日、大阪ロイヤルホテルで行われた新日本・大阪城ホール大会の前夜祭に(アントニオ)猪木さんと対戦する(マサ)斎藤さんの代理人として現れました。そして30日には、ジャパンの竹田勝司会長と大塚直樹副会長が記者会見を開き、長州さんの追放を発表します。

ジャパンプロレス本社で会見を開いた長州力(右)と大塚直樹副会長(87年3月)
ジャパンプロレス本社で会見を開いた長州力(右)と大塚直樹副会長(87年3月)

 当時は移籍するたびに大金がもらえました。自分も長州さんから「一緒に新日本に戻るぞ」と言われ、その年に福岡で猪木さんを交えて、3人で会いました。自分たちのほかに、斎藤さん、小林邦昭さん、レフェリーのタイガー服部さんで5人合わせ、1億円のオファーを受けましたが…。それなら最初から新日本に残った方が良かっただろうと。そうすれば維新軍を辞めて、本流の出世街道を歩めたのに…と思いましたね。

 長州さんの自宅に招集され、新日本復帰について朝方まで説得されることもありました。心が揺らぎましたが、永源(遥)さんから「谷津、ちょっと待て。(ジャイアント)馬場さんから話があって、竹田さんも来るから聞いてくれ」とお願いされます。馬場さんにも説得され、結局、自分はジャパンに残ることにしました。

 長州さんは、斎藤さんや佐々木健介らを引き連れて新日本に戻りました。残ったプロレスラーは自分のほかに永源さん、寺西勇さん、栗栖正伸さん、仲野信市、高野俊二(高野拳磁)がいて、最終的には全日本に合流することになりました。維新軍が解散となり、自分は仲野とタッグを組んでいましたが、87年秋にジャンボ鶴田さんとの「五輪コンビ」を結成することになりました。