1987年9月中旬に体調を崩して入院していたら(馬場)元子さんがお見舞いに来てくれました。そこで(ジャイアント)馬場さんが、自分と(ジャンボ)鶴田さんにタッグを組んでほしいと考えていることを伝えられました。

 同じアマレス出身で72年ミュンヘン五輪に出場した鶴田さんとは新日本時代2回目の米国武者修行中に初めてお会いしました。全日本勢が米国ミズーリ州のカンザスシティーで試合をした時に自分も出ていて馬場さんが粋な計らいでホテルを同部屋にしてくれました。

 鶴田さんはあまりプロレスに染まっていない堅実なサラリーマンみたいで後輩にも優しく平等でした。初対面時に「派手な商売だけど、堅実に。体が丈夫なうちは、お金を使わずに持っておきなさい。プロレスラーはあくまでも仮の姿で、やっちゃんの本当の姿は引退後だから貯金しておきなさい」と助言してくれました。その言葉を右から左に受け流し、遊びまくってしまったけど…。

「五輪コンビ」を結成する前、全日本は鶴田さんと天龍源一郎さんの二枚看板だったので、馬場さんは2人を対抗させた方が面白くなると考えたのでしょう。87年10月28日の岡山武道館大会の6人タッグマッチで鶴田さんと初めて組み、同30日の千葉公園体育館大会でロード・ウォリアーズ(アニマル・ウォリアー&ホーク・ウォリアー)が保持するインターナショナルタッグ王座に挑戦することになりました。当時ロード・ウォリアーズは日本人の挑戦者をほぼ10分以内に片付けていて王者組に勝てるのかという不安はありました。

 鶴田さんは自分とのタッグを喜んでくれて、控室では「やっちゃん、頑張ろうよ!」と。期待していただいているので足を引っ張るわけにはいきません。自分たちが先に入場すると王者組が入ってきました。普通なら一度、挑戦者組はリングから降りるけど「五輪コンビ」という名前をもらっている以上、そういうことはできない。リング端で待機して王者組をにらみつけました。
 試合が始まり攻撃を受けると、こっちもハイジャック・パイルドライバーやサンドイッチ・ニーパットといった合体技で反撃します。鶴田さんがホークの顔面にハイニーを決め、さらに自分がジャーマンスープレックスで畳みかけて3カウントを奪おうとしましたが、アニマルがなだれ込んできて阻止されました。

ホーク・ウォリアー(中)にダブルジャンピングニーパットを見舞うジャンボ鶴田(右)と谷津嘉章(1987年10月)
ホーク・ウォリアー(中)にダブルジャンピングニーパットを見舞うジャンボ鶴田(右)と谷津嘉章(1987年10月)

 結果的には場外乱闘により引き分けとなりましたが、かなりいいところまで王者組を追い詰められて手応えを感じました。この年「世界最強タッグ決定リーグ戦」では12月11日の日本武道館大会の最終戦でブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組を破り、優勝することができました。