一緒に飲み、コンサートにも…鶴龍の青春
「ジャンボ鶴田がライバル? いや、ライバルと言うにはジャンボのほうが勝ち過ぎていたよ。だから俺からライバルって言うと口幅ったい。戦友がピッタリくるのかな。全日本プロレスで一緒に戦っている時には仲間という気持ちもあったから〝お互いに生き抜こう〟って思ったし、何かがあると〝生き延びてほしい〟〝ジャンボが頑張ってるんだから、俺も頑張ろう〟って思ったしね。もしライバルだと言えるとしたら……俺が全日本を辞めて別れてからのほうがライバルだったね。全日本にいた時は戦友だったけど、別れた後は〝生き様でジャンボに負けたくない!〟って意識してたよ」
そう語るのは天龍源一郎。そこには様々な感情が含まれている。鶴田と天龍の関係は、一言では言い表すことができないのだ。
大相撲で前頭筆頭まで行った天龍がプロレス転向を決意した時、その背中を押したのは1976年6月11日の蔵前国技館におけるテリー・ファンクと鶴田のNWA世界ヘビー級戦だった。馬場元子夫人に誘われて2階席からナマ観戦した天龍は、相撲にはない華やかさ、制約の多い相撲とは違う自由な空気を感じたという。
「ジャイアント馬場という人がいなかったらプロレスラーになっていなかっただろうと思うけど、最初にジャンボ鶴田に会ってなかったら続けていなかったかもしれないね」といのが天龍の口癖だ。
同年10月15日に全日本プロレスに入団した天龍は、2日後の新潟県三条から巡業に合流したが、移動バスに乗り込んだ時、席が決まっていないから困ってしまった。
その時に「天龍選手、とりあえずこっちに座りなよ」と、気さくに声を掛けて、奥の席に座らせてくれたのが鶴田だった。そして会場に着くまでの間、普通の若者のように芸能界やスポーツの話をしたり、鶴田も中学時代に朝日山部屋に入門しかけたこともあるだけに相撲の話で盛り上がったという。
「最初に声を掛けてくれたし、朝日山部屋に入りかけたっていう話を聞いて急に親近感が湧いたし〝いい、あんちゃんだな〟って(笑)。もし〝元関取でもそうはいかない!〟みたいな態度を取られたら、北向き(※相撲用語で「へそ曲がり」などの意味)の天龍はプロレスへの取り組み方が違っていたかもしれないけど、お陰でスッと入ることができた。それはやっぱりジャンボが〝プロレスはそんなに難しいもんじゃないんだよ〟っていうような感じで、難しいところを易しく見せてくれていたからかもしれないね。ことさら〝そんな甘い社会じゃない!〟とか言う奴が多い中で〝大丈夫だよ、源ちゃん〟って接してくれたのがジャンボだったよ。実際は大変だったんだけどね(苦笑)」(天龍)
当時、鶴田は25歳。天龍は1歳上の26歳だったが、後輩は大仁田厚、渕正信、薗田一治(ハル薗田)の3人しかいなかった鶴田にとっては、気軽に話ができる同年代の仲間が増えたことは嬉しかったに違いない。
天龍は入団から1か月もしない10月30日に渡米。かつての鶴田と同じようにテキサス州アマリロのファンク・ファミリーに預けられて修行を開始した。
翌77年3月、鶴田は馬場と一緒にアメリカ・ツアーでアマリロに行ったが、天龍は住んでいたアパートで鶴田に素麺をふるまったり、ドリー・ファンク・ジュニアに頼んでチケットを手配してもらったエルビス・プレスリーのコンサートに鶴田と一緒に出掛けたりしている。
同年6月に天龍が凱旋帰国した後は、新橋の『スコッチバンク』や赤坂の『コルドンブルー』などの天龍の行きつけの店に2人で連れ立って飲んでいたという。
こうして当初、私生活では友達関係にあった鶴田と天龍だが、プロレスラーとしては天龍にとって鶴田は大きな呪縛になった。馬場も、アマリロで指導したドリーも、鶴田を尺度にして天龍を見ていたからだ。
電子書籍詳細ページはこちら▼
常に天才・鶴田と比較された天龍の苦悩
天龍も鶴田同様に各種スープレックスができて、ドロップキックができて、すべてがこなせるレスラーになることを要求された。
「馬場さんは俺にジャンボ鶴田と同等を求めただろうし、ドリーは俺の前に修行に来ていたジャンボの例があるから〝天龍も2~3か月でOKだろう〟ぐらいに思っていたんじゃないかな。でも、思うに任せない俺がいたし、何かにつけてドリーやコーチのジェリー・コザックに〝3か月もしたら、トミー(鶴田の愛称)に教えることは何もなくなってしまった〟って言われるのがプレッシャーだったね」(天龍)
天龍は相撲体形をプロレスラーに変え、ダブルアームとサイドの2種類のスープレックス、ドロップキックをマスターし、さらに鶴田にはない技としてテリー・ファンクの必殺技ローリング・クレイドルを伝授されて77年6月に日本デビューを果たしたが、すぐにメッキが剥がれてしまった。
「ジャンボとタッグを組まされて、タッチされた時にはもう、ジャンボが4種類のスープレックスとか、すべてやっちゃって、代わった俺は何をしていいのかわからなくて、相手の外国人選手の腕を持ってるだけ(苦笑)。〝別にタッチに来なくていいよ〟って思ってたよ。実際、ジャンボはとてつもなく素晴らしかったし、比較されるにはハードルが高過ぎたね。俺の〝第三の男〟なんて名前だけで……上にジャイアント馬場、ジャンボ鶴田がいたら、とてもじゃないけど太刀打ちできるわけがないよ」(天龍)
スランプに陥った天龍はその後、アメリカに2回修行に出て、ようやく日本に定着したのはプロレス転向から4年半後の81年5月だった。
同年7月30日の後楽園でビル・ロビンソンと組んで馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した試合で延髄斬りをやってのけ、その破天荒なファイトがファンの共感を呼んで馬場、鶴田に次ぐ〝第三の男〟に浮上する。
「あの試合は馬場さんもそうだけど、ジャンボが〝源ちゃんにやっと俺たちの相手方に回れるチャンスが巡ってきたんだな〟っていう感じで、俺がやる技をすべて受け切ってくれたっていう印象があるね。だから後楽園がやたらと沸いた。あの試合で俺は初めて〝ファンから支持されてるんだ〟と思ったよ」(天龍)
天龍が第三の男として頭角を現してきた81年夏過ぎから鶴田と天龍の関係は、以前とは変わっていく。プライベートではいつしか右と左に分かれて疎遠になっていったのだ。
「ジャンボがシリーズの休みの時にギターを弾きながらコンサートをやったりして夜の街には繰り出さなかったから、俺はことさらそっちのほうに踏み込んでいきたいというのがあったんじゃないかな(笑)。趣味嗜好が合わなかったということだよ。やっぱり生き様が違うから、仲良くはなってもベストフレンドにはなれなかったね」(天龍)
リング上では83年暮れの『世界最強タッグ決定リーグ戦』から全日本の看板タッグチームは馬場&鶴田の師弟コンビから鶴田&天龍の鶴龍コンビになり、同年のプロレス大賞で最優秀タッグチーム賞に輝いた。翌84年9月にインター・タッグ王座を戴冠、同年暮れの最強タッグに優勝して2年連続でプロレス大賞最優秀タッグチーム賞を受賞している。
そして85年に長州力らのジャパン・プロレスとの対抗戦が始まり、86年1月~87年2月の鶴龍コンビと長州&谷津嘉章の抗争は〝タッグ名勝負数え唄〟と呼ばれた。
相手の攻撃を天龍が真っ向から受けまくって耐え、相手がスタミナをロスしたところで鶴田が仕留めるというのが鶴龍コンビのパターンだった。
天龍は鶴龍コンビを振り返って「鶴龍時代なんて全然思ってなかったね。〝俺はジャンボ鶴田の添え物でしかない〟っていうのが正直なところだったよ。プロレスって不思議なもんで、ふたりが光ることってないよ。両雄並び立つことはあり得ないんだよ。鶴龍コンビのままだったら、俺はブレイクできなかっただろうね。ジャンボと組んだらそういう立ち位置になっちゃうね」と言う。
実際、人気面での差は歴然としていて、ふたりでサイン会をやると必ず鶴田のほうに長蛇の列ができた。自分に並んでくれた数少ないファンに対して天龍が「今は大して価値がないサインかもしれないけど、いずれ必ず〝貰っておいてよかった!〟と思えるサインにしてみせるから」と心の中で誓いながらペンを走らせていたのは有名なエピソードだ。
改めて鶴龍コンビ時代を振り返ると、ふたりは試合後に並んで取材を受けることはなかった。控室に戻ってくるや、右と左に分かれてしまうのだ。そうなると、どちらに先に話を聞きにいくべきか気を遣ってしまう。マスコミ側も心得たもので、各社の記者が目配せして、鶴田と天龍に同じ数の記者かが集まるようにパッと分かれていたものだ。
仲が悪いわけではないが、鶴龍コンビは決して仲良しこよしのタッグチームではなく、
一種の緊張感を伴っていた。それがそのまま鶴田と天龍のふたりの関係でもあった。
著者・小佐野氏と川田利明の対談LIVEが開催決定!詳細はこちら▼













