1983年8月、新日本プロレスの大塚直樹営業部長らが(アントニオ)猪木さんの個人企業「アントンハイセル」を巡る不透明な経理を問題視したいわゆる「クーデター事件」が起こりました。その結果として猪木さんが社長を辞任し、坂口征二さんが副社長から取締役に降格、新間寿さんは営業本部長を解任されました。

 猪木さんの新事業には自分も社債300万円分を購入しましたが、いまだにお金は返ってきていません。最終的に同年11月の臨時株主総会で猪木さんと坂口さんは元の役職に戻りました。しかし、この騒動の間に初代タイガーマスクが引退することになり、新間さんは会社を去りました。

 そして84年9月に私は長州(力)さん、アニマル浜口さん、小林邦昭さん、寺西勇さんら維新軍のメンバーと新日本を離脱し、大塚さんが立ち上げた新日本プロレス興行(後のジャパンプロレス)に移籍しました。大塚さんは全日本プロレスの(ジャイアント)馬場さんとも仲が良くて「長州を含めてあんたらは人気だから、新日本にも勝てる」ということで独立に至りました。

 当初ジャパンは収入がなかったので、自主興行をする前に全日本と業務提携をしました。馬場さんからしても、俺たち維新軍のメンバーが欲しかったと思います。

 そして、ジャパンの旗揚げ戦が同年12月4日に香川・高松市民文化センター開催となります。全日本が同8日に開催した愛知県体育館大会のメイン終了後、ジャパン勢が初乱入しました。当時は全日本の試合に出たら1日休んでジャパンの試合があって本当に大変だった。年間230試合ぐらいこなしていました。

 新日本ではプロレスだけをやっていれば良かったけど、ジャパンでは長州さんと大塚さんが2人で社長をしていた。その補佐の自分も経営まで見ないといけなくて、次第に夢が現実になってきたというか。そうなるとプロレスラーは萎縮して、スケールが小さくなっちゃいますよね。

長州力(左)と組んでインターナショナルタッグ王座を奪取(86年2月)
長州力(左)と組んでインターナショナルタッグ王座を奪取(86年2月)

 86年2月5日の全日本・札幌中島体育センター大会では、ジャンボ鶴田さんと天龍源一郎さんが保持していたインターナショナルタッグ王座に長州さんと挑み、自分が天龍さんからジャーマンスープレックスで3カウントを奪いました。外は吹雪で、会場内がすごく熱気にあふれているアンバランスさが印象に残っています。

 このころには“谷津嘉章”が長州さんのパートナーとして、必要不可欠な存在になっていました。お互いにアマレス出身で五輪にも出て(※)先輩後輩みたいな感じでしたね。ファンからの受けも良かったと思います。

 ※ 長州は専大在学中の72年ミュンヘン五輪のフリースタイル90キロ級出場