【プロレス蔵出し写真館】今から43年前の1981年(昭和56年)11月22日、新日本プロレス一行が鹿児島・徳之島に上陸した。

 試合の前、アントニオ猪木は徳之島に住む〝有名人〟を訪ねた。御年116歳の泉重千代さんだ。

 重千代さんは、慶応元年(1865年)6月29日生まれ。なんと江戸時代に生まれていた。人類の世界最長寿としてギネスブックに認定されていた。

 あるインタビュー取材で好きな女性のタイプを聞かれた重千代さんは「私は甘えん坊なので、やっぱり年上かのう…」と答えたという〝ひょうきん〟な一面が知られていた。

 重千代さんは同島・伊仙町の自宅で、アントニオ猪木の到着を首を長くして待っていた。重千代さんの数少ない楽しみがテレビでプロレス観戦。大の猪木ファンだった。

「ぜひ生きている間に一度、会いたい」という重千代さんの話を伝え聞いた猪木は、藤波辰巳(現・辰爾)と富家孝リングドクターを伴って、空港からタクシーに乗り込んだ。

 猪木が現れると「オー、オー、あんたが本当に猪木さんかい。よく来てくださった」。重千代さんは大喜びだ。

 猪木が「いやぁオジイちゃん、元気ですね。長寿の秘訣はなんですか」と問うと、重千代さんは「のんびり暮らしてきたことと、好きな酒(黒糖焼酎)を晩酌に毎日飲んできたよ。猪木さんもミショーレ、ミショーレ(召し上がりなさい)」と焼酎を勧めた。

「それじゃ、オジイちゃんの長寿にあやかって一杯だけもらいますか」。そう言って酒を酌みかわした。

 お互いが色紙にサインして交換したが、重千代さんが「アントニオ猪木君」と記したのが印象的だった。猪木は「寿」と染め抜いた紫の大座布団をプレゼントした。

 重千代さんに「世界一のレスラー目指して頑張ってください」とエールを送られ、猪木らは自宅を後にした。

 重千代さんが話す言葉は、土地の古い方言とあって、2人の会話は〝通訳付き〟で行われたのだった。

猪木と重千代さんは互いの色紙を交換した(1981年11月、鹿児島・徳之島伊仙町)
猪木と重千代さんは互いの色紙を交換した(1981年11月、鹿児島・徳之島伊仙町)

 それから5年後の86年(昭和61年)2月21日、老人性肺炎と心衰弱で重千代さんは死去。120歳の大往生だった(※後に異論が出て2010年にギネス記録は取り消された。105歳没が通説のようだ)。

 同席した富家氏は「約1時間弱、滞在しました。『なにか健康的なことやってますか?』って聞いたら、『なにもやってません』という話でした。黒糖焼酎は『普通に、適度に飲んでる』みたいな言い方してましたね。もともと神様から与えられた寿命があることを再確認しました」と回想する。

 さて、90年代に長寿の双子姉妹としてメディアで人気だったのが「きんさんぎんさん」だ。

 きんさんぎんさんは、1892年(明治25年)生まれの姉・成田きんさんと妹・蟹江ぎんさんの愛称。姉妹とも100歳を過ぎても元気で、会話にも機転が利いたことから、メディアで取り上げられ人気者になりCDデビューも果たした。

 猪木は2人と親交があり、2000年(平成12年)1月23日、きんさんが心不全で107歳で死去すると、通夜の場に「きんおばあちゃん 沢山の日本人の心のメッセージを頂きありがとう」と書いた色紙を寄せた。

 ところで、先日、MLBのワールドシリーズ第7戦後のシャンパンファイトの場で、MVPを獲得したドジャース山本由伸が耳打ちして、コーチが猪木の名ゼリフ「元気があれば何でもできる!」を絶叫したのには、見ていて驚いた。

 猪木の〝意外な〟人たちとの交流、プロレスの枠を超えた影響力は目を見張るものがあった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る