国際プロレスなどで活躍したプロレスラーの「稲妻二郎」をご存じだろうか。稲妻二郎ことジェリー・モローさんが今年7月28日にカナダで死去した。享年75。アフリカ系フランス人ながら〝日本名〟を名乗った昭和の異色レスラーを、プロレス評論家の門馬忠雄氏(87)が振り返った。

稲妻二郎(左)とジャック・クレイボーンの兄弟コンビ(1977年)
稲妻二郎(左)とジャック・クレイボーンの兄弟コンビ(1977年)

 フランス領マルティニーク出身のモローさんは、兄ジャック・クレイボーンが参戦したこともあって1971年に国際プロレスに入門。黒潮太郎(テディ・ハーバード)に続く留学生となり、同年7月にデビューした。当時の吉原功社長からは稲妻二郎のリングネームを授かった。

 門馬氏(以下門馬)国際の中でも特異な存在。マニアックな人気があった。新日本プロレスに全日本プロレス、SWSにも出てレスラー、関係者に人気があった。プロレス界では「二郎ちゃん」とかわいがられてたね。怖い顔をしてたから、そこら辺の発想で吉原さんは「稲妻」と名付けたんじゃないかな。

 同期入門には鶴見五郎がいたが、フランス語しか話せなかったモローさんが日本語を習得できたのは、日本の歌謡曲からだった。

 門馬 年末になって、合宿所の仲間のレスラーたちは(実家などに)帰る。(合宿所に残っていた)二郎はテレビで歌謡番組を見て、一生懸命に日本語を覚えたんだ。森昌子の「せんせい」が大好きで大ファン。マイティ井上に「夜のヒットスタジオ」の収録に連れていってもらい、本人と対面して感激したんだ。森進一と結婚(86年)した時は「お嫁さんになっちゃったあ…」と泣いていたんだって(笑い)。

長女・京子(中)を披露するアニマル浜口(1978年)
長女・京子(中)を披露するアニマル浜口(1978年)

 まだまだ差別が横行していた当時の日本で、黒潮が帰国後も、兄の励ましもあってイジメに耐えたという。そうした中で故マイティ井上さんと、アニマル浜口氏にはかわいがられた。浜口氏は後のレスリング世界女王で長女の京子が誕生した際、後楽園ホールでモローさんらに生後3か月の京子をお披露目したほどだ。

 プロレスラーとしては国際に来日したカール・ゴッチ、ビル・ロビンソン、ジョージ・ゴーディエンコら世界的な強豪のスパーリング相手を務めて成長。中でもアンドレ・ザ・ジャイアント(モンスター・ロシモフ)とはフランス語つながりで、親交が深かった。

 門馬 当時フランスのポンピドー大統領にちなんで、アンドレは二郎を「ポンピドー」と呼んでたよ。二郎はアンドレの世話係だったし、一番仲が良かった。いい時期にいい人たちと出会って、技術的にも人間的にも成長できたんじゃない。彼は素直でいつもニコニコしていたから、みんなに好かれた。雑用でも何でもこなしたしね。だから(81年9月に)国際が潰れた後も、全日本でジャイアント馬場さんに重宝がられた。日本側でも外国人側でも出場できて、時にはマスクマンにもなれたから、プロモーターには喜ばれたよ。

マスクマンとしても活躍したモローさん(1974年)
マスクマンとしても活躍したモローさん(1974年)

 日本を愛し、国際プロレス解散の一報を聞いた際には涙したとされる。

 門馬 本当でしょ。喜怒哀楽がはっきりとした人だから、すぐに泣くんだよね。すごく人懐っこいし、大変義理堅く、引退後もカルガリーの自宅から私の自宅に国際電話をかけてきた。「モンちゃん、元気~」ってね。そんな外国人レスラー、いないよ。日本に来たがってたよ。2011年東日本大震災では日本のことが心配になり、鶴見に電話をかけてきたんだ。「大変なんだろう」ってね。私にとっては記憶に残る黒人レスラーだね。

 7月24日に死去したハルク・ホーガンさん(享年71)のような誰もが知る華やかな存在ではないが、稲妻二郎も日本マットを支えた功労者だ。

 ☆いなずま・じろう 本名ジェリー・モロー。1949年9月10日生まれ。フランス領マルティニーク出身。71年に兄ジャック・クレイボーンのつてで国際プロレスに留学。同年7月に「稲妻二郎」のリングネームでデビュー。テクニシャンとして成長すると75年にはカナダに渡り、兄とのコンビでタッグ王者になった。日本、カナダ、ドイツ、プエルトリコのリングで活躍。81年に国際崩壊後は、全日本、新日本、SWSなどに参戦。83年にカナダ国籍を取得。引退後はカルガリー近郊で庭園関係の仕事をしていたという。