【昭和~平成スター列伝】新日本プロレス3日の福岡大会で「ハウス・オブ・トーチャー」が「バレットクラブ・ウォー・ドッグス」との「ドッグパウンドケージマッチ」に敗れ、バレットクラブから追放となった。新日本にとっては久々の金網戦だったが、1970年10月に日本で初めて金網デスマッチを行ったのは言うまでもなく国際プロレスで、長く団体の看板であり続けた。
その中でも72年11月27日愛知県体育館で行われた日本初の金網タッグデスマッチ、WWAタッグ王者のディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキー組にストロング小林、グレート草津組が挑んだ一戦は、王者組が途中で金網を脱走する不可解な決着となり、超満員8000人の大観衆が激怒。金網に入り込み暴動を起こす歴史的大騒動が起きている。本紙は1面と3面で大体的に報じている。
「日本初の金網タッグマッチとして話題を呼んだ一戦で、4人は金網の中で大死闘を展開した。試合は荒れて4人とも血だるま。ところがKOされた阿部レフェリーが前溝レフェリーと交代するとブルーザーとリソワスキーは前溝レフェリーをKOし金網から逃げ出してしまった。息を吹き返した小林が鎖を手に巻いて追いかけると、ブルーザーもイスを投げつけ大乱闘。しかし乱闘がエスカレートすると、観客がリングサイドに殺到。試合ができない状態となる。その間に王者組は控室へ。結局無効試合で外国人チームの王座防衛となった。この結果に納得できない約5000人のファンが立ち去らず猛抗議を行った。警官が到着しても帰らない。吉原功代表が金網に入り『試合がまずい結果になって申し訳ありません。来年2月にこの会場で無料試合をやるので納得してください』ということで収まったが、どうにもスッキリしない結果に終わった」(抜粋)
ではなぜ王者組は金網から脱走し“暴動”は起きたのか。当時、国際担当で取材に当たった本紙OBでプロレス評論家の門馬忠雄氏は「国際と外国人側のルールの打ち合わせが完璧ではなかった。王者組は金網からエスケープすれば勝利と把握していた。ボタンの掛け違いですよ。それにしてもお客さんは訳が分からず総立ちだし、私も事態が把握できず、ブルーザーたちを探したり、締め切りもあるし、あちこち取材したり大混乱だったね。体育館は二度と貸さないと怒るし、事後処理が大変だったんじゃないかな。愛知県体育館ではジャイアント馬場がボボ・ブラジルに負けた試合(68年6月25日)と並んで記憶から離れない試合だね」と述懐した。
名勝負になるはずのカードの再戦は行われず、結局「暴動騒ぎ」という不名誉だけを歴史に刻む結末となった。 (敬称略)













