【平成球界裏面史 近鉄編117】平成20年(2008年)シーズンを最後にジェレミー・パウエル投手は日本球界を去ることになった。平成13年(01年)にエクスポズからパドレス傘下のマイナーに移籍し、さらに近鉄バファローズに加入。ここからパウエルの人生は激変していった。

巨人時代、勝利を挙げ夫人とキスするパウエル(2006年8月)
巨人時代、勝利を挙げ夫人とキスするパウエル(2006年8月)

 パウエルは平成6年(94年)、カリフォルニア州のハイランズ高からドラフト4巡目(全体の112番目)でエクスポズから指名を受け入団。フロリダのルーキーリーグからプロキャリアをスタート、平成10年(98年)に念願のメジャーデビューを果たした。

 だが、メジャーでは3シーズンでわずか5勝。結果を残すことができず平成13年(01年)にサンディエゴ・パドレスにトレードされた。そのシーズンは3Aでのスタートとなり、シーズン途中に近鉄から必要とされNPBに参戦することが決まった。
 
 来日2年目の平成14年(02年)には17勝を挙げ最多勝。平成16年(04年)は所属球団の近鉄消滅を経験し、平成17年(05年)以降は合併球団のオリックス・バファローズ、巨人、ソフトバンクで平成20年(08年)までプレーしNPB通算69勝の成績を残した。

かつての同僚ローズと談笑するパウエル(2008年4月)
かつての同僚ローズと談笑するパウエル(2008年4月)

「日本での最後のシーズンは結果を残せず、ファンの期待に応えることができなかった。残念な気持ちはあるが、これで私のキャリアが終わるわけではない。日本でのキャリアを武器に母国に戻って力を試してくるよ」 

 平成20年(08年)10月12日にソフトバンクから戦力外通告を受け、平成21年(09年)1月7日にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約。ただ、メジャー復帰を果たすことはかなわずオフの11月9日にはFAとなった。

 その後は12月14日にパイレーツとマイナー契約で再契約。平成22年(10年)はパイレーツの春季キャンプに3Aの招待選手として参加したものの、メジャーの舞台に舞い戻る夢を果たすことはできなかった。このシーズンを終えるとパウエルは11月6日にFAとなり、現役を引退する決断を下した。

 引退後はMLB、NPBでの経験を買われ指導者の道へと進んだ。平成24年(12年)からはマイアミ・マーリンズ傘下のルーキー・リーグのGCLマーリンズ、平成26年(14年)からは1A・グリーンズボロ・グラスホッパーズ、平成28年(16年)からは1A+のジュピター・ハンマーヘッズ、平成30年(18年)からは3Aのニューオーリンズ・ベビーケークス、令和3年(21年)から3A・ジャクソンビル・ジャンボシュリンプで投手コーチを歴任してきた。

 パウエルは春季キャンプの時期になると、フロリダで若き才能の育成に汗を流している。日本人の取材関係者から声を掛けられると、当時を懐かしんで野球談義に花を咲かせる。パウエルにとって日本での経験は貴重な異国での財産。指導にあたっても存分にその経験を才能ある若き投手たちに注入している。

近鉄時代のパウエル(2003年3月)
近鉄時代のパウエル(2003年3月)