【橘高淳 審眼(19)】私は1984年に現役を引退し、85年からウエスタン・リーグの審判員として1シーズンを経験しました。そこから86年1月に米国での審判研修を経て、キャンプインに合わせて帰国。若手の審判としての勤務をこなしていました。

 審判の勤務には「審判割り当て票」というものがありまして、セ・リーグの審判部長である富澤さんが手書きで記したものを印刷して、審判員各自に配布されるという方式を取っていました。

 当時は審判部がセ・リーグ、パ・リーグという形で別の組織として運営されていました。ただ、二軍の試合はご存じのようにセ・リーグ、パ・リーグが混在します。そのため、ウエスタン・リーグはパ・リーグの審判部が管轄。イースタン・リーグはセ・リーグが管轄するように決められていました。

 当時は在阪パ・リーグの球団が阪急、近鉄、南海とあって、在京セ・リーグの球団が巨人、ヤクルト、大洋という構成ですから、二軍戦の管轄はおのずと、そういう図式になったのだと思われます。

 二軍戦はほぼデーゲームですから、火曜日から日曜日の6連戦はなかなかにハードでした。とはいえ、元野球選手ですから体力はあり余ってましたし、体調崩して欠勤なんてこともありませんでした。二軍戦の開催時期は一軍の開幕より遅く、終わるのは早かったと思います。全日程で60試合程度でした。基本的に試合開始の2時間前には球場入りしています。13時から試合開始とすれば、10時半くらいには球場入りというイメージです。

 車で現場へ移動する時には先輩たちを乗せて運転。電車であれば主要ターミナル駅に集合し、先輩たちと待ち合わせて通勤していました。兵庫の姫路や高砂、京都の西京極などの球場に先輩たちと車で移動したことも覚えています。阪神主催の二軍戦は当時、尼崎にあった浜田球場を使用していました。あの球場には審判員用のロッカーがなく、プレハブ小屋で休憩や着替えを行っていました。阪急ブレーブスの西宮球場、南海ホークスの本拠地だった大阪球場や、近鉄バファローズのホームである藤井寺球場にはパ・リーグの審判室、ロッカー、お風呂もありました。年に数試合だけ甲子園を使用することもあり、こちらも設備は整っていました。

 話は脱線しますが、西宮球場の食堂がハイレベルだったんです。特にビフカツが好みでした。ちゃんと阪急系列のレストランが入っていて、審判室に運んでもらってはおいしくいただいてました。これはもちろん自腹ですよ。割引もございません。

 難波(大阪球場=現在のなんばパークスの場所)の食堂もおいしかった記憶がありますね。こちらは丼ものが充実していました。若かりし日はそうして食事を取ってゲームに備えたものです。

 1年目の85年、セ・リーグの関西管轄の新人審判員は僕一人でしたから当然、最も年下です。他の審判員の方々は一軍に出られている先輩もウエスタンに割り当てられるなどして一緒に仕事をさせてもらいました。こうして徐々に経験を積んで一軍審判を目指していくことになります。