【橘高淳 審眼(16)】1984年オフ、プロ野球選手なら誰もが経験する引退の時を迎えました。80年に春、夏の甲子園を経験し81年からプロ野球選手になりました。4年目の84年は練習生兼ブルペン捕手という形で、現役時代の4年間を終えることになります。

 そのタイミングで合宿所の「虎風荘」の梅本正之寮長から「審判になれ」と勧められました。ただ、即答はできず実家に帰り、その後の進路を考える時間をいただきました。

 当時はバブル期で就職口は豊富にあった時代でした。球団からもいくつかの職業を紹介していただきましたし、私の知人からの紹介もありました。やはり、元プロ野球選手ということで体力がある印象が強かったんでしょう。警察官、自衛隊という道も勧められました。

 印象に残っているのはレンガ屋さんでしたね。もう昔の話ですから、そちらの会社がどのような業務内容だったとか詳細は覚えていませんが、周囲からいろんな職業を紹介していただきました。そんな中でアルバイトをする生活を送っていたところ、実家に梅本寮長から電話がありました。

「とにかく面接に行け。バイトしててもアレやろ」。あまりに熱心に誘っていただいたので、そこまでおっしゃるならという気持ちで東京・銀座にあったセ・リーグの事務所に赴きました。その時でもまだ、心境としては採用されたら審判になろうという気持ちとまでは言えない心境でした。

 面接に行くと、1学年下で広島カープの選手だった上本孝一君の姿がありました。私の1人前の面接が上本君だったわけです。

 上本君は81年ドラフトで京都・西舞鶴高からドラフト5位で広島に入団した捕手です。私も阪神の捕手でしたから当然、顔見知りです。私と同じように84年オフに現役を引退していて、彼の場合は希望して面接を受けに来たということでした。

 昔の広島市民球場を覚えている野球ファンの方々は多いでしょう。外野のポール際の球場内にブルペンがあって、そこから救援投手がリリーフカーに乗って出てくる風景を思い出しませんか。特に旧市民球場のリリーフカーは独特でしたね。

 丸みを帯びた白い形の乗り物で、球場に隣接する「そごう」デパートのマークが前面に大きく入っていました。これが無線操縦で制御されており、運転手は不在で投手を降ろすとひとりでに帰っていく。当時は近未来的であり、今思えばレトロなリリーフカーです。

 話がそれましたが、上本君はそのリリーフカーが出てくる奥のブルペンで捕手として投手の球を受ける役割を担っていました。そうすると、仕事のない時間には近くにいる外野審判と話をするようになり、いろいろな話を聞くことになりますよね。そういった流れで引退後には審判員になる道を模索していたそうなんです。

 梅本寮長に勧められ渋々、面接に来た私と自ら希望して面接に臨んだ上本君ではその時点でのモチベーションは違ったことでしょう。それでも未来はもう、今現在には分かっていることですから。揃って2人とも採用され同期の審判員として切磋琢磨していくことになります。