【橘高淳 審眼(15)】1984年、私はプロ野球の世界に入って4年目を過ごしていました。4年目は練習生とブルペン捕手を兼任する立場で阪神タイガースに在籍していました。現在のプロ野球ファンの方々には耳慣れないでしょう。練習生というのは、今で言う育成選手のような立場でしょうか。
ただ、育成選手はファームの公式戦に出場できるのに対し、練習生は二軍の試合にも出場できませんでした。練習試合には出ることはできましたが、そんなに試合数が多いわけでもありませんでした。
キャンプでは高知・安芸のグラウンドに一軍メンバーと一緒に移動してアップ、キャッチボールまでは行動を共にします。その後はブルペンに移動して一軍の投手のボールを受けることになります。そこから自分の練習へと移行していくわけです。
そのまま一軍と一緒に行動するときもあれば、二軍の本隊に戻って練習するという日もありました。当時は練習設備も今ほど立派なものではありませんでした。二軍は安芸から室戸の方へ移動して、本当に河川敷のような河原でバットを振ったりという状況もありました。
目の前の練習に必死だったので、待遇に関しての不満などを感じる余裕がありませんでした。練習生から支配下登録選手に戻るチャンスもあったのですが、それがかなわなくなったというタイミングもありました。そんなつもりはなかったですが、どこかで諦めていた自分もいたのかも分かりませんね。
そのシーズンの納会が終わった時です。現在も大阪・福島にあるホテル阪神ですね。球団マネジャーから「明日、スーツを着て球団に来てくれ」とのことでした。先輩たちの何人かも同じことを言われていて「(ついに戦力外通告の時が)きたな…」と話されていたことを覚えています。
実際、球団事務所に赴くと次のシーズンからの選手契約を結ばない旨のお話をされました。滋賀県の瀬田工高からプロ入りして4年間はずっと寮住まいでした。とりあえず行くところがないので、滋賀の実家に帰ろうかと考えていました。
そうしたところ、当時の合宿所である「虎風荘」の梅本正之寮長からこんな話を持ちかけられました。「審判をやらんか」と。現在も88歳でご健在の梅本さん。大阪タイガースの頃からの選手でコーチやスコアラーも経験された方で「鬼軍曹」と恐れられていました。このたび閉鎖した鳴尾浜の「虎風荘」の初代寮長ですね。
キャッチャーの経験者だから声を掛けてくれたのか。寮長には「見えるやろ」と言われました。まだ、私も若かったですし、それはボールは見えました。しかし、選手経験者からアンパイアとなると正直、抵抗はありました。ぜひともと、希望してなりたいという職業ではないなという感情がありました。
退寮しなければいけない期限がありましたが、とりあえず実家に戻って考える時間をいただきました。球団もいくつかお仕事を用意してくれました。当時はバブルの時期で景気も良かったですから、就職口がないという状況ではありませんでしたが…。












