【橘高淳 審眼(12)】1980年のドラフト、正確に言うとドラフト外で私は阪神タイガースに入団することになりました。この80年までの3年間は各球団最大4人までドラフト指名できるという制度をとっていました。
私は4位で指名していただける予定だと聞いてはいました。ですが、当初は3位までで消えると阪神がもくろんでいた大商大の山田和英投手を指名できるということで方針転換があったそうです。
それでも、プロ野球選手にはなれないのではという不安はありませんでした。阪神球団の今成スカウトから野球部関係者らを通じ、獲得意思を示していただいていましたし、ドラフト外での入団も珍しくなかったですから。
80年の阪神はドラフト1位で中田良弘投手(日産自動車)を指名。中田さんは85年のリーグ優勝の際には12勝と活躍されました。今でも関西のテレビ局、スポーツ紙の評論家としてファンの皆さんに親しまれています。
2位では後に同じ審判員となる同級生の渡真利克則内野手(沖縄・興南高)、3位は石橋功行投手(島根・大田高)、4位は前出の山田さんが指名されました。
加えてドラフト外で引間克幸内野手(電電関東)、山脇光治内野手(大阪・浪商高)、森忠仁投手(千葉商高)、私の4選手が入団しています。
このドラフト外の制度が生んだドラマが昔はありました。この年、熊本・八代高でプロ注目だった秋山幸二君(後に西武、ダイエーでプレー。ソフトバンク元監督)は大学進学の意思が強く、ドラフト指名は回避されていました。
ですが、ドラフト後にプロ入りを表明し西武、巨人、阪急、広島で争奪戦となりました。81年の1月になって西武への入団が決定。水面下では激しい獲得合戦が起こっていたのだとは思いますが、こういった裏技がまだあった時代でしたね。
現在は各球団、一流ホテルで華々しく入団発表会見を行いますよね。全員がドラフトを経て育成選手も含めてお披露目です。しかし、われわれの頃はドラフトの4人とドラフト外の選手とは別で会見などを行っていた記憶があります。私は同じ関西出身の山脇君と一緒に2人で取材を受けたんじゃないでしょうかね。
入団が決まり自主トレという段階でも今とは違いますね。新人合同自主トレという形でルーキーだけを集めて行うのではなく、先輩たちも含めてみんなでランニングしたりしていたはずです。私は平日は高校で授業を受けて、土日に練習に参加して電車で自宅に帰っていたと思います。
ランニングになると川藤幸三先輩が「ほら~お前ら、前に行かんかい~」と大きな声で号令を出して、新人を先頭に立たせていました。当時の私からすれば怖かったですよ。でも、そうやって声を掛けてくれるのは優しさの証拠でもあります。
審判員時代は球場でお会いすると「おーい、きー(川藤氏はこう呼ぶ)。元気か」と必ず声を掛けてくださいました。阪神のOB会長に在任中は「審判だろうが関係なかろう。OB会に参加せんかい~」と気に掛けていただきました。












