【橘高淳 審眼(13)】ドラフト、自主トレを経て春季キャンプの時期が訪れます。2月1日、高知・安芸でのキャンプに、私は二軍組として参加しています。
現在は時代が変わり沖縄で宜野座組、具志川組というグループ分けをしていますが、当時は一、二軍ともに高知の安芸でキャンプを行っていたはずです。
よく高卒でプロに入るとレベルの違いに驚がくするという話を聞くことがありますよね。もちろん、私の場合もそういう経験をしましたね。とはいっても私は二軍からのスタートで、いきなり一軍の主力投手のボールを受けることはありませんでしたが。
ただ、同じルーキーでドラフト3位の石橋君(島根・大田高)のボールを受けても、ホンマもんでしたね。さすが、島根の怪物と言われていただけあるなというボールを投げてきます。でも、こんなボールを投げる投手がいても島根から甲子園には出てきてないんだなとは思いました。
ドラフト外で同期だった山脇光治君だってそうです。大阪・浪商の出身であの中日・牛島和彦さんの1学年後輩、バックアップ要員だった投手です。それはもう制球力抜群で、私は内心「大阪はこれでも甲子園に出られなかったのか。すごいレベルなんだろうな」と思ったものです。この山脇君はのちに野手に転向し、阪神ではコーチやスコアラーも歴任しました。
ドラフト外ではもう一人、引間克幸さんはよく代走で起用されていました。安藤統男監督から吉田義男監督の時代ですかね。投手陣には小林繁さん、江本孟紀さん、山本和行さんらがいて、打撃陣は藤田平さん、真弓明信さん、掛布雅之さん、岡田彰布さん。代打の切り札といえば右は川藤幸三さん、左は永尾泰憲さんという時代です。
私がドラフトされた1980年、阪神は話題豊富な時代でした。2005年、23年の優勝監督にもなった岡田彰布さんのルーキーイヤーでした。ドン・ブレイザー監督がチームを率いていましたが、新人の岡田選手の起用法をめぐっては混乱がありました。ヤクルトから獲得したデーブ・ヒルトンの起用を優先するも不調。ファンやマスコミから「岡田起用要求」が噴出するなどした時代です。
そのブレイザー監督はシーズン途中で辞任し、後任には「怪童」の異名を取っていた中西太ヘッド兼打撃コーチが就任することになります。そこから岡田さんが試合にスタメン出場するようになり、打率2割9分、18本塁打で新人王を獲得する流れとなりました。
8月16日には、よく言われる「空白の一日」の問題でトレードの当事者となった2人が直接対決しました。小林繁さんと江川卓さんの両投手の投げ合いですね。ただ、そんな華々しいお話はあくまで一軍での出来事です。
当時は阪神の二軍は強くなかったと記憶しています。当時の二軍監督は安藤統男さんでした。バットスイングが鈍すぎると怒られて、甲子園の横にあった寮の屋上でバットスイングをさせられました。その時代の寮、虎風荘は今でも建物だけが甲子園から道路を一本隔てたところに残っています。某大手楽器メーカーさんの教室があるあたりです。懐かしい話です。












