【橘高淳 審眼(18)】1984年オフに現役を退いた私はセ・リーグに入局、審判員となる道を歩み始めました。85年のシーズンインからセ・リーグ所属の審判員としてウエスタン・リーグの試合で審判を務め1シーズンを過ごしました。
そこから86年の1月、米国・フロリダに渡り、ブリンクマン審判学校で野球のルールやフォーメーションなどを改めて学ばせてもらいました。米国のスプリングトレーニングでよく見られるような真ん中に建物があり、その周りをグラウンド4面が囲っているような構造です。ベースボールの本場で実習であったり、座学であったり1か月ほどの留学、研修を受けてきました。
ブリンクマン審判学校の校長先生であり、実際の指導責任者の立場にあった人物は、MLBの現役の審判員であったジョー・ブリンクマンさんでした。その審判員の名前がそのまま付けられた学校名になっています。ここで学んだ人々でMLBの審判を目指す皆さんは翌年の春からルーキーリーグでスタートし1A、2A、3A、メジャーと階段を上っていくわけです。リーグの規模もチーム数も多数に及ぶため、メジャーの審判員となるまでの道のりは相当に長いことでしょう。
私たちがこういった機会を得られたのは当時のセ・リーグ審判部長・富澤さんらの尽力のおかげであり、しかるべき手続きを経てセ・リーグからの支援を受けてのものでした。帰国後にはさらなる技術向上を目指してセ・リーグの審判員として成長するため、努力したつもりです。富澤部長からは「審判だけでなく、アメリカのことも勉強してこい」という言葉もいただき、現地で友人もつくり米国の文化も学んできました。
私の記憶では106人の人々が審判学校で学んでいたと思います。それに対応するように審判学校の指導員は皆、ブリンクマンさんの教え子たちでメジャー、マイナーリーグにおいて現役で審判をされている20人ほどが手伝いに来られてました。
一緒に学んでいた米国人審判員の中には、今でもMLBでアンパイアとして活躍している人物も存在します。日本人ではアマ審判の方が1人、私と同期の上本君の計3人。余談ですがアマ審判の方は関東地方で鉄道会社の運転士をしながら、今でもアマ野球の審判をされているようです。
研修終了後、修了証書を頂いて帰国です。84年オフに現役を引退し審判員に転向。そこから85年の1シーズンを二軍の審判として過ごし、翌年初めには米国の審判学校で研修というとバタバタしたように聞こえるかもしれませんが、そんな印象はありませんでした。
まだ独身でしたし、幸いにしてプロ野球のシーズンの流れは現役時代の4年間で経験済みですから遠征も慣れたものです。審判員の先輩方には気を使うことはありましたが、それ以外はもう目の前の仕事に取り組むことに集中していたんでしょう。現役時代に一緒にプレーしていた選手たちも多かったですが、そこには気を使うことはなかったですね。あくまでルールで決められていることを正しく行使するだけ。
米国での修行を経て86年からは心意気を新たに審判員2年目のシーズンを過ごすことになります。












