【橘高淳 審眼(20)】現役のプロ野球選手を退き1985年から審判員として活動を始めました。二軍でも球審を務めていると高いボール、低いボールをストライクと判定したりしてしまうとベンチやスタンドから声が飛んできます。
そういうことはあったとしても審判員として試合に出場することは可能です。何があっても試合を休みたいとは思ったこともないですし、目の前の仕事に集中し成長しようと業務にまい進していました。
その後に一軍の試合も担当するようになり、自分なりには円滑に試合を進行できるようになっても「これで一人前になったな。仕事に慣れたな」という感情は別段、感じたことはありませんでした。かといって、自分が審判員としてダメかなと思うこともなかったですね。
最も近い先輩が友寄さんでした。その友寄さんは8年目で一軍の審判を担当するようになりました。周りの先輩たちからは「君なら5年でも6年でも一軍でできるよ」と評価してくださる方もいましたが、それは他人の評価であり自分ではとやかく言えることではありません。
駆け出しの頃はウエスタン・リーグの審判ですから、前年まで選手として一緒にプレーしていた面々もいますし、ルーキー以外はほぼみんな顔見知りでした。私は特に捕手ですから、各球団の打者とは打席で顔を合わせますしね。
昔は対戦チームで同じブルペンを使うグラウンドというのもありました。その昔、広島のファームが使用していた神勝寺球場(現在のツネイシスタジアム=福山市藤江町)は球場の外にブルペンがありました。共同で同じブルペンを使用するため、カープのバッテリー陣とは比較的に話す機会が多かった気がします。
当時、広島市民球場を一、二軍が同一日程で試合を行う際はウエスタンの試合開始が10時で朝早かったことも覚えています。14時からホームの打撃練習が始まり、18時からのナイターに備えないといけないですからね。
悪質なヤジもありませんでしたし、ケンカになってしまうような選手もいませんでした。逆に「頑張れよ」と言ってくれる選手たちもいました。
昼間から二軍時代の試合を観戦し、笑ってしまうようなヤジを飛ばしてくるおじさんたちもいましたね。私が阪神OBということはバレていますから「阪神びいきやないか~」と観客席から言われることもありました。
西宮第二球場、大阪球場、藤井寺球場には名物おじさんたちがいました。なかなか、特別に嫌みのあるような言葉ではなくウイットに富んだ笑えるヤジが多かったです。当時は顔も覚えていたくらいです。
あの頃、おじさんたちは50歳くらいだったとすると今では90歳くらいですか? ご存命の方もいらっしゃるかもしれません。このおじさんたちは昼間から二軍投手を観戦して、何の仕事をしてはるんだろうなと思ってましたね。飲食業などの自営業者の方だったんですかね。
もちろん、われわれ審判員も選手たちも真剣にやっているんですが、ウエスタン・リーグの球場には牧歌的な空気が流れていた時代です。大抵の場合は平穏だったんですが、審判1年目の夏場にウエスタン・リーグの試合で“事件”が起こることになるんです。












