【平成球界裏面史 近鉄編106】平成15年から近鉄に在籍したケビン・バーン投手の存在を記憶している近鉄ファンは多いだろう。来日直後には、梨田昌孝監督が「素晴らしい投手が来てくれた」と期待をあらわにした右腕だ。

 平成7年(1995年)のMLBドラフト11巡目でシカゴ・ホワイトソックスに入団。平成12年(2000年)5月にメジャーデビューしている。平成13年(01年)にはブルージェイズ、平成14年(02年)はドジャースでプレーし、当時は業務提携していた近鉄と契約する流れとなった。

 来日当時で29歳。150キロに迫る直球と多彩な変化球を駆使する投球スタイルで、193センチの長身にルックスも良く見栄えが抜群の投手だった。来日1年目の平成15年(03年)3月31日のダイエー戦(大阪ドーム)でデビューすると7回1/3を2失点で初登板初先発初勝利。ただ、その後は不安定な投球が続き、5月中旬には抑えで起用されるようになった。

お立ち台で声援に応えるバーン(左は川口、2004年4月)
お立ち台で声援に応えるバーン(左は川口、2004年4月)

 それでもセーブシチュエーションで登板すると救援失敗するケースが多く、0セーブのまま中継ぎに降格。起用法が安定しない中、投手不足のチーム事情で6月下旬に先発へ再転向すると実力の片りんを見せ始めた。シーズントータルでは30試合に登板し防御率4・37ではあったが、8勝7敗の成績は悪くはない数字だった

 平成16年(04年)、近鉄最後のシーズンとなる年も期待は高く、岩隈久志に次いで開幕第2戦で先発を任された。合併問題に揺れる中、野球に集中できる状況ではなかったが先発ローテを守り、27試合全てに先発登板し防御率は3・89。打線の援護に恵まれず6勝8敗と負け越したが、首脳陣の評価は高かった。

 このシーズンは173回2/3を投げ来日2年目にして規定投球回に到達。近鉄の消滅、オリックスとの合併に伴い、外国人選手に関しては刷新する方針ではあったが、合併新球団の監督に就任した仰木彬氏の希望もありオリックス・バファローズに残留。登録名をファーストネームの「ケビン」に変更し新たなシーズンを迎えることになった。ちなみに近鉄の同僚・ジェレミー・パウエル投手もオリックスと契約し登録名を「JP」に変更している。

(左から)小泉球団社長、仰木彬監督(2004年10月)
(左から)小泉球団社長、仰木彬監督(2004年10月)

 平成17年(05年)でのオリックスバファローズからの期待値も高かった。来日3年目の正直、来日初の2桁勝利を首脳陣はもくろんでいたが、外国人枠の問題もあり安定した起用を得ることができなかった。先発しても勝てず二軍調整という流れを繰り返し、前年を大きく下回る109回1/3の登板にとどまり4勝13敗と大きく負け越した。奪三振も前年の154に対し70と半分以下に落ち込み、不調のシーズンとなった。

 ただ、ペナントレースで首位を走ったソフトバンクを相手に3試合に先発し、白星こそないものの防御率0・51と奮投。上位チームとの対戦成績を評価したロッテから平成18年(06年)の契約を打診され日本で4シーズン目を迎えた。

 ロッテでも期待は大きく開幕第2戦の先発に抜てきされたが、結果を残すことができず。シーズン途中からは中継ぎに転向した。ビハインドの場面での登板が多くなり、28試合に登板し3勝5敗3ホールド、防御率4・41。11月28日に自由契約選手として公示された。

ロッテでは28試合に登板したケビン・パウエル(2006年2月)
ロッテでは28試合に登板したケビン・パウエル(2006年2月)

 ちなみにテキサスA&M大学時代はアメフトのワイドレシーバーとして活躍。父のジム・バーンはヒューストン・オイラーズ、サンディエゴ・チャージャーズでワイドレシーバーとして活躍したNFL選手だった。