【平成球界裏面史 近鉄編101】近鉄カルトクイズかとツッコミが入ってもおかしくない。かなりマニアックすぎる問題だ。平成15年(2003年)に近鉄バファローズを退団し巨人に移籍したタフィ・ローズ。その穴埋めを期待され、平成16年(04年)にドジャースから近鉄に加入した選手を覚えているだろうか。その名はラリー・バーンズ。来日した当時は29歳だった。
平成8年(1995年)に米大リーグ・エンゼルスに入団。プロ2年目の平成9年には1Aで131試合に出場し打率3割1分7厘、27本塁打、112打点と順調な成長を示した。その後は2A、3Aと着実に昇格し平成13年(01年)4月にメジャーデビュー。だが、メジャーのカベは高く16試合の出場にとどまった。
一方で同じシーズン、3Aでは100試合に出場し18本塁打、73打点と好成績。平成14年(02年)はメジャー昇格はなかったが3 Aで114試合、打率3割1分4厘、20本塁打、95打点と結果を残した。平成15年はドジャースに移籍し、メジャーで30試合に出場。3Aでは82試合で15本塁打、57打点という成績を残し近鉄バファローズから声が掛かった。
来日当時のバーンズは「タフィ・ローズが近鉄で残した成績、功績というのは聞いている。彼を超えるという事を今すぐには言えないが、まだまだ自分は発展途上にある。NPBのレベルが高いことも承知しているが、日本の文化も含めて勉強していきたい」と、真面目に話したことが印象的だった。
また、バーンズは東洋系(タイ出身)の母を持っており「日本には愛着がある」とも話していた。キャンプから練習態度も非常に真面目で、当時の正田耕三打撃コーチは「あんまり真面目すぎてローズと全くちゃうからなあ。真面目で悪いことはないんやけど、成績が伴わない時にあんまりにも真面目に悩みすぎんかったらええんやけどな」との懸念も示していた。
メーカーが所持していたローズモデルのバットがあり、バーンズに試打してもらおうという企画もあった。「〝ポストローズ〟のバーンズがローズモデルバットでフリー打撃」などと記事にしようと試みたが結局、バーンズは使用せず。近鉄球団関係者からも「あんまりプレッシャーかけてやらんとってくれよ」ということで、あまり目立たずキャンプ、オープン戦と無難にこなしシーズンへと入っていった。
開幕戦から3番でスタメン。開幕2戦目の日本ハム戦で3点ビハインドの9回二死満塁から、建山義紀を相手に2点適時二塁打。続く中村紀洋の逆転サヨナラ打へとつないだ。だが、翌日には故障。6月に一軍復帰し8日の西武戦で潮崎哲也から来日初本塁打を満塁本塁打で見舞ったが、勢いは続かなかった。
その後は7月に新加入した助っ人のマリオ・バルデスや、成長株だった大西宏明が台頭したこともあり、バーンズは一、二軍を行ったり来たり。球団合併により近鉄が消滅すると、そのまま自由契約となり米球界へと戻った。
あまり目立つことはなく、ひっそりと1年の在籍で去ってしまった助っ人ではある。だが、当時の近鉄担当記者が集まると時々、話題にはなる。「バーンズは真面目やったな」と。
















