【平成球界裏面史 近鉄編97】平成21年(2009年)、タフィ・ローズは近鉄ではなく、オリックスバファローズで2度目の現役引退を決意した。NPB最後のシーズンは右手の骨折などの影響もあり84試合の出場にとどまった。打率こそ3割8厘と大台をキープしたが規定打席には及ばす。22本塁打、62打点という微妙な成績でシーズンを終えた。
オリックス球団は平成22年(10年)の契約続行を希望していた。ローズの帰国後も交渉を継続したが、条件面での溝は大きかった。当時のオリックス・村山良雄球団本部長は新年が明けた1月23日、ローズとの再契約交渉を打ち切ることをマスコミに明かした。
ローズの希望額は前年度の3億円超に近い条件。しかし、次シーズンには42歳を迎える助っ人に大場な減額を提示し交渉を続けていた。保留者名簿から外し、自由契約とした上で回答を待ってはいたものの、次期監督に岡田彰布氏を招へいしており、ディフェンス重視という方針にも合致しなかった。
そんなタイミングでオリックスはMLBでプレーしていた田口壮外野手の獲得を決めた。村山球団本部長は当時、「ローズ側に契約の意思を確認するつもりはありません」との意思を示し、ローズのNPBでのキャリアは終えんを迎えた。
ローズは米国に帰りテキサス州・ヒューストン郊外で静かな日々を過ごしていた。だが、引退から5年となる頃、近鉄に縁のある人物から連絡が入った。もうローズは46歳。まさか現役選手としてのオファーが来るとは想像もしていなかったが、そのまさかが起こった。
平成27年(15年)5月25日、近鉄時代のチームメイトでもある吉岡雄二監督が率いていたルートインBCリーグの富山GRNサンダーバーズから野手コーチ兼選手として契約の打診を受けた。当時の独立リーグはNPB出身の選手を指導者として起用し、人気面での効果をもくろんでいた側面もあった。
実際、ローズが加入するとグッズ収入も大幅アップ。観客動員数もアップするなど営業面での貢献があったのは確かだ。成績としては41試合に出場し、打率3割1分5厘、5本塁打という成績ではあったが存在感や話題性は示したと言っていいだろう。
BC富山は平成28年(16年)もローズと現役選手として契約する方針だった。だが、オフに故障を発生させるなど、シーズンが始まっても来日できない状況が続いた。開幕ロースターにも名を連ねてはいたものの、米国のドクターからもプレー可能との太鼓判をもらうことができず、最終的に来日自体を断念。コーチ専任で来日するというところに落ち着いたが、結局はシーズン中に日本の土を踏むことは叶わなかった。
それでもオフにBC富山から次シーズンの契約を打診された。ただ、ローズは「もう、さすがに走られへんよ。打つのと、教えるのは何とかなるかもしれへんけど、周りに迷惑もかけたくなかったしな」と契約自体を固辞した。
その後は来日時に東京や大阪などでトークショーに出演するなど、球界との繋がりをキープしてはいるが、来日するケースは激減した。















