【平成球界裏面史 近鉄編93】平成15年(2003年)オフに8年間プレーした近鉄を離れ、巨人に移籍する道を選んだタフィ・ローズ。平成16年(04年)は見事に新天地でのプレッシャーを跳ねのけ45本塁打を記録。自身4度目、外国人選手初となる両リーグ本塁打王に輝いた。
FA権を取得し、外国人枠の適用外となると生涯巨人を公言。日本球界で野球人生を終える覚悟で平成17年(05年)の プレーに臨んだ。だが、堀内監督を含め首脳陣とのソリが合わず敗戦後に暴言を吐くなど、チームから浮いてしまった。
平成18年(06年)は母国に帰り地元のシンシナティ・レッズとマイナー契約。開幕メジャーを目指して招待選手としてスプリングトレーニングに参加した。それでもオープン戦での成績12試合で27打数6安打。レッズからマイナー行きを通達され3月21日をもって現役引退を表明した。
そこから平成18年シーズン、ローズはいかなる国のいかなるリーグでもプロ野球の公式戦ではプレーしていない。少なくとも6か月以上は、プロの生きたボールも見ていなければ、本格的なトレーニングも行っていなかった。
それでも、同年オフには野球を続けたい気持ちがふつふつと身体に沸き始めた。「日本の心の故郷」と表現する近鉄バファローズはもうない。本来ならここに助けを求めるところなのだが、もう近鉄球団は存在しない。
ただ、近鉄球団に従事していた人材は大阪と仙台を中心に大勢、野球界で活躍している。ローズはNPBでの現役復帰をもくろみ、関係先と連絡をとることにした。結果、近鉄と合併したオリックス・バファローズと連絡がつき、テスト生として春季キャンプに参加する段取りが決まった。
平成17年(05年)に発症し手術した右肩痛も癒えていた。平成19年(07年)、沖縄・宮古島での春季キャンプに合流すると、明らかに体重オーバーしていることが周囲にバレていた。チーム関係者、取材陣の誰もが「ローズ大丈夫?あれは無理やろ」と心配顔で見守った。
オフィシャルで90キロ弱であるはずのローズの体形は、ベルトの穴にすれば3つ分ほどオーバーしていた。当時のチーム関係者は「余裕で100キロ超えとったと」笑う。ただ、ここからはさすがだった。キャンプ期間中にチームが用意した通常メニューに加え、自身のこだわりを加味したトレーニングを実行。合格が出る2月26日の頃にはベスト体重に近づけた。
テスト参加時には「合格したら背番号は96にしよかな」と話していた。これは近鉄に入団した年が96年だったからだ。だが、合格が決まるとローズは背番号を「8」に決めた。これはなぜなら、近鉄時代のチームメートであり大親友の中村紀洋が背負った番号だからだ。
中村は近鉄時代に「66」、「3」、「5」と背番号を推移。平成18年(06年)はオリックスで「3」と「5」を足した「8」を背負ってプレーした。その当時、中村は中日で育成選手として入団テストを受けている境遇だった。偶然にも2人の立場が似ていた。互いに励まし合う意味をあったに違いない。















