【平成球界裏面史 近鉄編99】平成29年(2017年)にBCリーグ富山と契約を結ばず、米国にとどまる結果となったタフィ・ローズ。この時点でもう近鉄バファローズが消滅してから13年の月日が経過していた。現在は故郷である米オハイオ州シンシナティや、アリゾナ州で生活し、野球とも距離を置いている。

タフィ・ローズ、ルイス・アキーノ、クリス・ドネルスが来日(1996年1月)
タフィ・ローズ、ルイス・アキーノ、クリス・ドネルスが来日(1996年1月)

 それでも日本や日本球界関係者との交流は継続しており、日本プロ野球外国人選手OB会の取り組みの一環でインタビューを受けるなど関わりは深い。コロナ禍で海外渡航が制限されていた時代も過ぎ、近年も来日予定が設定されることがあったが、現在のところは実現してはいない。

 ローズがNPBでプレーを開始したのは平成8年(1996年)。そこから平成21年(09年)までの13シーズンをNPBに費やした。元々は高校卒業後の昭和62年(1987年)にヒューストン・アストロズからドラフト3巡目指名(全体の68番目)を受けプロ入り。メジャーリーガーとしてスターになることが夢だったローズにとっては予定外の人生だったかもしれない。

ローズのヘルメットに張られたシール(2003年6月)
ローズのヘルメットに張られたシール(2003年6月)

 プロ入り2年目の昭和63年(88年)は1Aで65盗塁を記録するなど、将来の有望株として期待された。平成2年(90年)には自身初のメジャー昇格を果たしており、ローズのキャリアは平成と共にスタートしたと言っていい。

 平成5年(93年)はアストロズでメジャー5試合に出場するも2打席のみで無安打。4月にカンザスシティ・ロイヤルズに移籍することになった。ロイヤルズではメジャー昇格はならず、3Aでのプレーに終始した。さらに7月にはシーズン2度目のトレードでシカゴ・カブスへ移籍。カブスでも3Aが主戦場となったがマイナー88試合で30本を超える本塁打を放ち、終盤にメジャー昇格のチャンスを勝ち取った。

 日本球界に在籍経験もあり、メジャー複数球団でスカウトとして活動したある人物は、のちのローズの活躍をこう分析する。

太田房江知事から賞詞されるローズ(2001年10月)
太田房江知事から賞詞されるローズ(2001年10月)

「NPBはメジャーと3Aの間のレベルで4Aと昔はよく言ったものです。そのリーグのレベル、特性に合う能力というものは存在するんです。タフィの場合、そのパワーはメジャーの中軸未満、NPBの日本人強打者以上という評価になるんでしょう。米球界がエキスパンション前であり、円高ドル安の時代であったことも後押しして、若く有望ながらチャンスのない選手が日本に行きやすい条件がそろっていましたね」

 メジャーで外野のポジションを獲得するには相当な打撃力、あるいは守備力か脚力を求められる。3つしかないポジションをフィジカルモンスターが奪い合う世界だ。MLBでのローズはスピードは抜群だが、守備と打撃はそこそこの選手だった。だが、NPBでは打撃での潜在能力が開花し超スラッガーとして活躍する場を確立することができた。まさに、ローズは日本にハマったわけだ。

 近鉄とて、ここまでハマりまくるとは予想しなかっただろが、それはうれしい誤算だったに違いない。その後の成功はローズ自身の努力であり、当時の指導者たちの尽力のたま物。MLB6年とNPB13年の実働年数がすっぽりと平成時代に収まる史上最強助っ人の凄みは、こうして今でも語り草になっている時点で説明の必要はないだろう。

ヤングマンの振り付けをするローズ(2003年10月)
ヤングマンの振り付けをするローズ(2003年10月)