新日本プロレスとWJプロレスで取締役を務め、〝平成の仕掛け人〟と呼ばれた永島勝司さんが、10日に都内の病院で死去していたことがわかった。82歳だった。

 遺族によると、昨年12月4日に自宅で意識を失い、救急搬送されて入院。意識は取り戻したものの肺気腫を患っていたため、呼吸不全で亡くなった。遺族は「最期は安らかに逝きました。(最期まで)プロレスへの情熱がありました」と話した。葬儀は12日に家族葬で執り行われた。

記者時代、アントニオ猪木さん(左)と記念撮影する永島さん(1980年)
記者時代、アントニオ猪木さん(左)と記念撮影する永島さん(1980年)

 東京スポーツ新聞社では運動部記者、整理部長として活躍。新日本を率いた故アントニオ猪木さんと太いパイプを築き、右腕となった。1988年には新日本に入社。プロレス初となる89年4月の東京ドーム興行開催、95年4月の北朝鮮・平壌での「平和の祭典」、同年10月の「新日本対UWFインナーナショナル全面戦争」に、98年4月の「アントニオ猪木引退試合」など、次々と世紀のビッグイベントを手掛けた。

 新日本では取締役企画宣伝部長を務めたが、2002年に退社。専修大学の後輩だった長州力と組み、翌03年にWJを旗揚げした。WJでは専務取締役の重職に就いた。WJ崩壊後はプロレス評論家、ライターなどに専念していた。

 新日本時代は選手、関係者から「オヤジ」「ゴマシオ」の愛称で親しまれた。記者時代からボクシング人脈も豊富で、猪木引退試合には故モハメド・アリのゲスト登場を実現させて世界中を驚かせている。

 昭和&平成のプロレス界を彩った個性派の〝名裏方〟だった。