【プロレス蔵出し写真館】今から38年前の1984(昭和59年)年9月20日、大阪府立体育会館で行われたアントニオ猪木VS〝兄錦〟アノアロ・アティサノエの異種格闘技戦(5R猪木が延髄斬りからバックドロップで勝利)を取材。

 翌日、新幹線で帰京の途に就くと、しばらくして、会社の先輩記者を呼び出す車内放送が聞こえてきたのだった。携帯電話がまだない時代、専用番号107で「列車着信通話」ができた。  

「Nさんもこの新幹線に乗っているのか…。会社から電話って、何かあったのだろうか」。そう思いながら、社に上がり東スポ紙面を手にすると、1面は猪木の試合詳報。そして、サイド記事の見出しを目にして仰天した。

「新日興行、長州ら5人引き抜く」

 長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍5人が、新日本プロレスを脱退して新日本プロレス興行KK(大塚直樹社長)へ電撃移籍するという驚きのニュースだった。車内電話でN記者が呼び出された理由はこれだった。

 話を聞くと、この日11時5分に東京・築地の東スポ本社に大塚社長から「午後3時、キャピトル東急ホテル、月光の間で緊急記者会見を行います」と連絡が入ったという。そして、「新日プロ5人の選手の当社入りが決定しました。現段階では名前は公表できません」と言って電話は切れたそうだ。

 この時間は、新聞発行(通常のA版)は既に終わっている状況。しかし、業界を震撼させる事件に、急きょ版替えの〝追っかけ〟発行を決定し、これまでの取材状況を踏まえて5人を特定して原稿を執筆したという。サイド記事「血戦を斬る!」の部分を差し替え、輪転機を回したのだった。

 15時からの会見にはN記者と駆けつけたが、他社の記者も心配するほど、新日プロ担当だったN記者の落胆ぶりは顕著だった。

 会見が終了してからN記者は長州に単独取材。「昨夜まで噂をきっぱりと否定していたが、わずか何時間で事態が急変したのか」との〝恨み節〟とも思える問いかけに、長州は開口一番「先輩、すいません」。N記者は専修大卒で長州の先輩だったのだ。そして、「俺の苦しい胸の内をわかってほしい。弁解をするつもりはないが、大阪大会が終わった後、大塚社長と話し、新日興行に役員として入社することを決めた」と明かした。

 会見前の14時50分には、南青山の新日プロ事務所に5人の退社届が届けられ、一読した坂口征二副社長は「タヌキ5匹に騙された」と激怒する一幕もあり、寝耳に水の移籍だったことがわかった。

 同月25日には永源遙、栗栖正伸、保永昇男、新倉史祐、仲野信市が追随。27日に米国から緊急帰国したキラー・カーンもこれに続いた。10月に入り、新日興行は社名をジャパン・プロレスに変更(9日)。若手の笹崎伸司、レフェリーのタイガー服部も合流した。29日には参謀役のマサ斎藤も帰国し、参加を表明。ジャパンは一大勢力となり、全日本プロレスに参戦する。

【写真】マサ斎藤の歓迎会で酒を注がれる長州

 さて、当時、物議を醸したのが猪木の発言だった。9月26日の会見で、「(選手大量離脱は)早めに年末の大掃除ができてすっきりした、ということです」と語ったのだ。これに、「俺たちはゴミか」憤慨した選手もいた。

 ところで、N記者は何年かして猪木に請われ、東スポを退社して新日プロ入りした。数々の仕掛けで、新日プロを盛り上げたが、02年に長州とともに新日プロを追われてしまう。そして、長州と〝地獄の1丁目〟と揶揄されたWJプロレス設立に奔走することとなる(敬称略)。

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