【キューティー鈴木・白い青春(10)】ジャパン女子プロレスのプロデューサーだった作詞家の秋元康さんからリングネーム「キューティー鈴木」を授けられて、デビューから3年が経過した1989年。初めて水着で撮影した1本のイメージビデオをきっかけに芸能のお仕事が増え、プロレスをやりながら忙しい日々を過ごすことになりました。
当初、芸能の仕事は週に1、2回くらいの頻度で「〇時に事務所に来てください」と言われていましたが、そのうちスタッフが家まで迎えに来てくれるようになったんです。半年たったころには、毎朝9時に迎えに来てもらって、夜11時に寮へ帰ってくるような生活になりました。寝る時間もなくて、4時間くらい寝られたらいい方。いつも撮影中に「今このまま倒れたら寝ていられるかな」って考えてましたよ。
試合の日も時間ギリギリまで仕事してから会場入りし、自分の試合だけ出場すると、すぐ違う仕事に行ったり。練習はまともにできないし、他の選手とも、しっかり話す時間もなくて気まずい雰囲気の時期もありましたし、試合で当たりが強かったときも。「仕方がない」って黙って受け止めてましたけど、精神的にはつらかったですね。2日連続で休みがもらえるのは大みそかと元日だけ。私が16歳でジャパン女子に入門してからはあまり実家にも帰れなかったので、入門時に小学6年生だった弟と久しぶりに会ったとき、高校生になっていて驚いたことを覚えています。
いろんな芸能のお仕事をやらせてもらった中でも、小さいころから読んでいた週刊ヤングジャンプの表紙になったのはうれしかったです。毎日忙しくて出演したテレビや映画を見たことがなかったんです。だからコンビニへ行ったら自分が表紙のヤンジャンが置いてあって「本当に載ってるんだ!」みたいな。自分の仕事を初めて目の当たりにして感動しました。地元の友達からも「買ったよ」ってたくさん報告してもらって。歌を出した時よりも自分の中で大きな出来事でした。
始めは会社も私がこんなに売れるなんて思わなかったみたいで。何年か前にジャパンの広報をやっていた方と会ったんです。当時芸能のお仕事の給料は会社と折半って話だったんですけど「実は謝らなくちゃいけないことがあるんだ。あの時急に仕事が増えて今まで会社に入ったことがない額のお金が入ってきた。いくら渡していいかわからなかったから、〇円にしたんだ。ごめん」って言われて。
私もうすうす気づいてはいたんですけど、改めて言われると腹が立って「いやいや。いくらも何も折半っていう話だったじゃん!」ってなりましたよ。あの時のお金はどこに行ったんだろう…。













