【キューティー鈴木・白い青春(6)】ジャパン女子プロレスに入門した1986年3月、山本小鉄さんの厳しい練習に苦しみながら風間ルミさんの付け人になりました。

東スポに来社した(左から)キューティー、風間、ダイナマイト関西(88年1月)
東スポに来社した(左から)キューティー、風間、ダイナマイト関西(88年1月)

 当時事務所が一軒家とマンションの一室を借りていて、私は風間さんと同じマンションで隣の部屋で生活してました。風間さんの洋服を洗濯したり荷物の用意をし、芸能の仕事があると、テレビ局に付いて行くこともありました。用意がものすごく遅い上に出発するギリギリにお風呂に入る方だったので、いつも焦っていたことが印象に残ってますね。

 後輩が入ってきて半年くらいしか付け人をしてなかったんですけど、すごい優しかった。私が16歳で風間さんは20歳。おキレイだし、子供ながらに「色っぽいな」って。そしていつもプロレスのこと考えていて、お酒を飲むとプロレスの話ばかりする情熱的な人でした。私よりも背が低かったんですけど、だからこそ「大きい人には負けない!」っていう気持ちが強い。そういうプロレスをつくっていこうと戦うかっこいい人でした。

 私が芸能の仕事が忙しくなっても、風間さんは応援してくださっていました。芸能の仕事を始めたばかりのとき、会社から言われたことを必死にこなしているだけだったんです。すると、風間さんから「こういう仕事をできる人は限られている。プロレス界が変わるきっかけになるかもしれないから、1個1個の仕事を大事にしなさい」って言われたんです。それからはもっとジャパン女子を見てもらえるように芸能の仕事もプロレスも頑張ろうと一生懸命に励みました。

 そして旗揚げ戦まで約2か月に迫った86年6月。突然、練習生が全員集められて当日のマッチメークをジャッキー(佐藤)さんが発表したんです。尾崎(魔弓)や同期の名前が呼ばれる中、私の名前はありませんでした。事務所の人からは「旗揚げ戦がゴールじゃないから」って言われたけど、すごく悔しかったし、今度いつデビューできるかもわからない不安もありました。

 試合が決まってからは出場する子の練習がメインになるので、私はひたすら雑用。みんなのご飯をつくったり。でも辞める覚悟もなかったので、とにかく突き進むことしか考えてなかったです。

 雑用係として練習もできないまま、8月17日の旗揚げ戦当日を迎えました。このころは新しいプロレス団体ができるって珍しいことだったから、後楽園ホールも満員。ゲストで(アントニオ)猪木さんや本田美奈子さんなどいろんな人が来てましたね。でも、私は雑用。全試合のセコンドに就いて近くで試合を見ながら「同期なのに全然違うな」って悔しかったです。それから1か月後の巡業中に突然私のデビュー戦が決まるんです。