【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(最終回)】2002年9月14日の引退試合から約1か月半後に三男が生まれ、この先の仕事をどうしようかと考えていた矢先に、一軍ヘッドコーチの鹿取義隆さんから「ノムさんの下でもやっていたし、スコアラーの仕事に興味はないか?」との連絡をいただきました。そこから巨人のスコアラーを9年、その後も巨人とヤクルトで投手コーチを経験させてもらいました。

 NPBを離れてからも独立リーグや社会人チームでも指導者としてチャンスをいただき、今度は韓国プロ野球。初回にも書いた通り、もう野球界から足を洗おうと思っていた矢先に舞い込んできたオファーでした。54歳になった今でもグラウンドで仕事ができるなど、実家で大工見習いをしていたころには想像さえできなかったことです。

 僕はプロで延べ8人の監督のもとでプレーさせていただきました。ダイエーでは田淵幸一監督と根本陸夫監督、王貞治監督、ヤクルトの野村克也監督に若松勉監督、近鉄の梨田昌孝監督、巨人の長嶋茂雄監督と原辰徳監督。残念ながら1年目と現役最終年は一軍登板なしで終わって恩返しできませんでしたが、それぞれの監督から多くのことを学ばせていただきました。

 特に大きかったのは、野村監督の下で野球を勉強できたことです。ダイエーでの4年間で2勝しかできなかった僕が、ヤクルトで「野村再生工場の最高傑作」と言われるまでになり、今も野球界に携われているのは「野村の考え」というベースがあるからです。

 もちろん監督ばかりではありません。コーチやトレーナーも含めた球団スタッフや家族、ファン…関わってくださった全ての人の助けや後押しがなければ、こんな幸せな野球人生を送ることはできなかったでしょう。3人の息子たちも野球に向き合ってくれて、それぞれ高校や大学、社会人で僕や妻に夢を見させてくれました。

 2月の春季キャンプに入る前、個人的なお願い事で、原監督にお電話させていただく機会がありました。用件を伝えて、お礼を述べ、長くなってはいけないと電話を切ろうとしたら、原監督から「ところでお前さん、今は何をしているんだ?」と尋ねられました。

 久しぶりに聞いた肉声の「お前さん」に懐かしさを覚えながら、2月からサムスンライオンズで二軍投手コーチをすることになったと伝えると、原監督はこう言ってくれました。

「良かったな。求められるところで仕事をするのが一番だから。新天地でも頑張れよ」

 求められる限り、これからも野球界に恩返ししていくつもりです。全41回にわたってお送りした当連載もこれで最終回。長い間、お付き合いいただきありがとうございました。 =おわり=