【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(37)】物事がうまくいかないと、つい人のせいにしたくなったりしますよね。1997年に15勝したのを最後に成績が右肩下がりとなっていた僕は、何かと不満を漏らす“嫌なやつ”になっていました。

 ダイエーから数えて3球団目の近鉄でも移籍1年目の2000年に3勝4敗、防御率6・79と結果を残せず、01年はキャンプこそ一軍スタートだったもののオープン戦期間中に二軍落ち。一軍投手コーチの小林繁さんから中継ぎでの昇格を打診されても「先発でやりたいので」と拒否していました。

 そうこうしているうちに迎えた6月のある日、僕はちょっとしたことで爆発してしまいました。理由は風邪で練習を休んでいた投手が一軍に昇格したことです。当日はシート打撃に登板する予定だったのですが「やってられるか!」と。二軍投手コーチの久保康生さんを相手に「他にも頑張っているやつがいるじゃないっすか!」と。

 正義感からの言動だとは分かってもらえていたようですが、久保さんは「この調子だと田畑は一軍首脳陣に文句を言いかねない」と思ったのかもしれません。いくらたしなめても熱くなったままの僕に、思いもよらぬことを言ってくれました。「今は我慢しとけ。トレードあるぞ」。球団から巨人との交換トレードを告げられたのは数日後のことでした。

 現在、シーズン中のトレード期限は7月31日ですが、07年までは6月30日。両球団からトレードが正式発表されたのは6月25日で、まさに“駆け込み”でした。近鉄から僕と真木将樹、巨人からは三沢興一、玉峰伸典と投手4人の2対2。左の中継ぎ投手を探していた巨人の本命は97年のドラフト1位で25歳と若かった左腕の真木で、言うなれば僕はオマケのようなものでした。

 期待されていなかったせいか、僕はヒゲ面のまま入団会見に臨んだのに誰からも注意されることはありませんでした。それどころか、翌日にジャイアンツ球場のブルペンで投球練習をした際は、近鉄時代に使用していた紺のスパイクを履いていました。

 入団発表から3日後の6月28日にはイースタン・リーグの湘南戦で7回から鄭珉哲の2番手で投げて2回を打者6人でパーフェクト。高田繁二軍監督には「コントロールもいいし、実績、経験がある」と絶賛していただき、2日後には中継ぎ要員として一軍昇格を果たしました。

 富山の田舎で生まれ育った僕にとって、気軽にテレビで試合中継を見ることのできた唯一のチームが巨人です。しかもミスタープロ野球、長嶋茂雄さんが監督でヘッドコーチは現監督の原辰徳さん。これは“最後のチャンス”であり、かつてのように「先発で」と起用法にこだわることもありませんでした。