【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(35)】1998年6月21日、札幌・円山球場で行われた中日戦で、僕の右肩は飛んでしまいました。決して大げさではなく、例えるなら50年ほど前に人気を博したアニメ「マジンガーZ」のロケットパンチのごとく、肩から先が抜けて飛んでいったような感覚――。先発調整のため東京に残留していた伊藤智仁も、テレビ中継を見ながら「あっ、田畑さんやっちゃったな」と分かったそうです。

 だらんと落ちたような状態の右腕をテーピングで固定し、帰京後に検査した結果は「ベネット症候群」。長年にわたり投球動作を繰り返すことで肩関節に骨棘(こっきょく)という骨のトゲが生じ、大きくなったものが腕の骨や神経を刺激することで痛みが走る症状です。投手にとっては職業病のようなもので、シーズン半ばにして長期離脱が確定してしました。

 痛みがひき、何とか投げられるようになったと思っても肩は思うように回らず、開幕時ぐらいの状態に戻ればとリハビリに励む日々。シーズン最終盤の10月8日に横浜戦で投げる機会をもらいましたが、1―0の4回にローズの適時打と佐伯貴弘の3ランを食らって4失点KOされ、前年の15勝5敗から一転して、3勝7敗でシーズンを終えました。

 野村克也監督は同年限りで退団され、後任には打撃コーチだった若松勉さんが就任。一軍投手コーチだった尾花高夫さんの退団に伴い、二軍から小谷正勝さんが上がってきました。体制が大きく変わったチームでは、必ずと言っていいほど世代交代が推進されます。この時のヤクルトも例外ではありません。30歳シーズンとなった99年、僕はその波をまともに受けることになりました。

 前年に17勝で最多勝と沢村賞に輝いた川崎憲次郎に14勝の石井一久と左右の両看板がいて、五十嵐亮太や宮出隆自、石井弘寿といった将来性のある若手も台頭。僕が投手コーチだったとしても、肩に不安のあるベテランより、若手にチャンスを与えたことでしょう。しかし、当事者として「はい、そうですか」と引き下がるわけにはいきません。先発6、7番手の位置付けで、降雨中止などでローテーションが変わった際、僕がそのあおりを受けるケースが何度かあり、小谷コーチに「なんで僕ばかり飛ばされるんですか」と不満をぶつけたこともありました。

 先発で結果を出せたのは、ダイエーでお世話になった元監督の根本陸夫さんが亡くなられた翌日の5月1日、初めて無四球完封を飾った横浜戦の1度だけ。せっかく登板機会をもらっても勝利に結びつけられず、中継ぎに回っても失点続き。7月半ばに二軍落ちすると右足首が悲鳴を上げ、さらなる悲劇が僕に襲いかかりました。