【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(36)】1999年夏、右肩に続き、右足首が悲鳴を上げました。原因は長年にわたって過度に負荷をかけてきたこと。1か月ほど様子を見てから8月上旬に二軍戦で登板したものの痛みは引かず、一軍首脳陣にも報告した上で8月17日に手術を受けました。

 驚いたのは術後です。事前に聞いていたのは右足首内側の骨棘(こっきょく)の除去手術でしたが、なぜかそれとは別に外側の靱帯が人工のものに取り換えられていたのです。足首が動かなくなったばかりか、くるぶし付近にボコッと浮かび上がったままの人工靱帯。足の形まで変わってしまい、今でも僕は左右で靴のサイズが違います。

 起用法への不満に加えて、不可解な手術による人間不信。「もう、ここでは無理だ」と感じた僕はオフの契約更改交渉でトレード志願をさせてもらいました。内々に…ではなく、その考えはメディアの方々にも伝えました。契約は一度保留してからサイン。どう転ぶにしても野球をやることに変わりはないので、開幕を見据えてしっかりと体づくりはしました。

 二軍スタートとなった2000年の春季キャンプでは低めに投げることだけを意識。何とか結果が伴ってくると一軍から声がかかり、3月19日に大阪ドームでの近鉄とのオープン戦で登板機会を得ました。先発の川崎憲次郎が予定の5回でマウンドを降り、6回から登板。8回無死一塁から川口憲史に2ランを浴び、そこから二死を奪ったところでお役御免となりました。

 2回2/3で55球を投げて2安打2四球2失点。決して褒められた内容ではありませんでしたが、なぜかベンチに戻ると若松勉監督から「ナイスピッチング!」と笑顔で迎えられました。謎が解けたのは翌日になってから。球団側から、近鉄とのトレードが決まったと告げられたのです。商談相手の前で元気に投げる姿を見せられたことへの「ナイスピッチング!」だったのかもしれません。

 ダイエーから数えて3球団目となる近鉄では、さっそくチャンスが与えられました。4月2日のウエスタン・リーグ阪神戦での調整登板を経て、一軍で移籍後初登板の機会が巡ってきたのは6日後の大阪ドームでのロッテ戦でした。0―0の6回にボーリックのソロを浴びて白星とはいきませんでしたが、7回途中1失点とまずまずの投球。チームは礒部公一のサヨナラ2ランで逆転勝ちと幸先のいいスタートになりました。

 しかし、4月15日の西武戦で松井稼頭央に3ランを食らうなど6回7失点。3戦連続で白星から見放され、2連勝した5月5日のダイエー戦と5月13日の日本ハム戦はいずれも4失点でした。7月7日のオリックス戦では4年ぶりの1試合4被弾と結果を残せず、8月30日の日本ハム戦で4回7失点と炎上したのを最後に二軍で過ごすことになりました。

 起用法への不満からトレードを志願し、希望をかなえてもらったのに近鉄での1年目は10試合に先発して3勝4敗。このころの僕は自分のことばかり考えていて、かなり性格も悪くなっていたように思います。