【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(38)】ダイエーでもヤクルトでも近鉄でも、僕は先発にこだわり続けてきました。ヤクルト3年目の1998年に右肩を痛めてからは、リリーフで連投することに対する不安があったのも事実です。

 しかし、4球団目となる巨人へのトレードは既に32歳となっていた僕にとってラストチャンス。経験を買われ、移籍後2試合目の登板となった7月8日の横浜戦に先発して3回76球で8安打、5失点と打ち込まれたのを最後にリリーフに専念しました。ちなみに口周りに生やしていたヒゲを剃ったのは、7月9日の朝でした。

 トレードは心機一転する絶好の機会であり、モチベーションが高いことから体の痛みも気力で乗り越えられてしまうのだから不思議なものです。球宴明け最初のヤクルト3連戦では初の3連投も経験しました。球宴前最後の阪神戦での登板も含めると初の5連投。肩の不安を抱えながらも頑張って投げていると、長嶋茂雄監督から直々に今でも忘れられない言葉をかけていただきました。
 ある日の東京ドームでの試合前です。トイレで用を足していると、あとから入ってきた長嶋監督が横に立ち、こう言いました

「タナベ、よく投げているな。えっへっへ。宮田が『タナベ、タナベ』って言うんだよ」
 ここで「監督、『タナベ』ではなく『タバタ』です」なんて言うのはやぼというものです。「宮田」とは投手総合コーチの宮田征典さんのこと。おそらく投手交代の際、宮田さんから僕の名前が頻繁に出てくるという意味だったと思われます。それだけ信頼されているのだと思ったら、心にグッとくるものがありました。

 余談になりますが、実はヤクルトに移籍した当初も、僕は野村克也監督から「タナベ」と呼ばれていました。「ヒマワリ」と「月見草」に例えられるレジェンド2人による同じ言い間違い。こんな貴重な経験をしている選手も珍しいのではないでしょうか。ちなみに巨人で投手コーチをしていた際に、キャンプ視察に訪れた長嶋さんから「田畑、元気か?」と声をかけていただいたことがありました。監督と選手として過ごしたのは約4か月ほどですが、名前を覚えていただけて本当に光栄です。

 とはいえ、僕の右肩はいっぱいいっぱいの状態でした。7月からの加入で29試合に投げられたのは、つかみ取った自分のポジションを誰にも渡したくないという一心からです。今ならトレーナーに「痛い」と言ったら、首脳陣まで話がいって登録抹消となりますが、当時はまだ「黙っといて」が通用する時代でした。ただ、何とかシーズンを乗り切ろうと奮闘したツケは、翌年に「引退」という形で払うことになったのです。