【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(40)】2002年夏、ついに決断の時が来ました。右肩痛からブルペンでの投球練習さえままならない僕に選択肢は一つ。「引退」の2文字を受け入れるのは、そう難しいことでもありませんでした。

 最初に報告させていただいたのは就任1年目でVロードを爆走していた原辰徳監督です。「今年で…と思っています」。そう伝えると、意外な言葉が返ってきました。

「手術しないのか?」

 プロ11年目で33歳。自分の能力や、過酷なリハビリを経て再び今のポジションを取り戻さなければいけないと考えたときに、僕の頭の中から「手術」の2文字は消えていました。しかし、原監督に勧められたとなれば話は別です。とりあえず内視鏡で検査してもらうことにしました。

 メスを入れ、内視鏡で見た右肩内部は、僕の決意を後押しする状態になっていました。本来は白いはずの軟骨はアメ色に変色し、関節唇もボロボロ。医師には「何もせずに閉じてください」と伝えました。

 自分の生きざまやキャラクターを考えれば、球団から「クビだ」と言われるまでやるべきだったのかもしれません。同学年の高津臣吾がヤクルトを戦力外となった後も韓国や米マイナー、台湾、国内独立リーグで現役を続けたように。そうできなかったのは僕の弱さかもしれませんが、1991年のドラフト10位、指名された全92選手の中で92番目に名前を呼ばれた男が、ここまでよくやったと思いました。後悔もありません。

 そんな僕が02年に残した公式記録は二軍戦登板の1試合だけ。9月14日にジャイアンツ球場で行われたヤクルト戦での引退登板です。左足底筋腱挫傷でリハビリしていた高橋由伸にとってはプロ初の二軍戦出場で、42日ぶりの実戦ながら2打席連続四球の後の第3打席で右越えに特大弾を放った試合です。

 僕の出番が訪れたのは10―9の9回でした。打席に立ってくれたのは右ヒザやアキレス腱がボロボロになり、この年限りで現役を退く池山隆寛さんです。投手の引退試合では空振り三振が“お約束”で、実は事前にカーブ2球でカウントを整えてから最後に直球を投げるというシナリオを伝えていました。しかし、高めに浮いたカーブに池山さんが手を出し、結果はまさかの投ゴロ。ただ、苦笑いしながら一塁を目指してくれた池山さんには感謝しかありません。外様の僕に、素晴らしい舞台を用意してくれた球団スタッフに対しても同様です。

 観衆2030人と記録されたジャイアンツ球場のスタンドには身重の妻に2人の息子、富山から後援会のメンバーが50人以上も駆けつけてくれました。最後には両軍の選手から胴上げまでしてもらえた僕は、本当に幸せ者です。