【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(39)】2001年6月末に加入した巨人では、貴重な経験をいくつもさせていただきました。引退後のスコアラーや投手コーチ時代も含めれば、あと40回ぐらい連載を続けられると思います(もちろん冗談ですよ)。
なかでも忘れられないのが、9月30日の横浜戦(東京ドーム)。試合後のセレモニーで、同年限りでの退任が決まっていた長嶋茂雄監督が「来季から若い世代の人たちのパワーに託しまして、球団のさらなる発展、繁栄を期待し、若い指揮官、原新監督にバトンを渡すことになりました」とスピーチし、ヘッドコーチだった原辰徳さんが「長嶋茂雄監督の教えを継承して、伝統ある巨人軍の一員として育んでいくことをここに誓います」と宣言した日です。
長く巨人投手陣を支えてきた槙原寛己さん、斎藤雅樹さん、その女房役だった村田真一さんの引退試合でもあり、スタンドに詰めかけた5万5000人の大観衆が涙し、感謝したことでも知られています。90年近い歴史を誇る伝統球団にとっても大きな転換点である節目の日にベンチ入りし、現役最後のマウンドへ向かう槙原さん、斎藤さんをブルペンで送り出したばかりか、セレモニーでは握手やハグまでさせていただいたことは身に余る光栄でした。
巨人移籍1年目は29試合に登板して1勝1敗、防御率3・66。試合の勝ち負けに関係なく出番が与えられ、回またぎも7試合ありました。3回5失点でKOされた7月8日の横浜戦での先発を除けば28試合、計29回を投げて防御率2・48。セ・リーグで「ホールド」が採用される前でしたが、悪くない数字を残すことはできました。
ただ、僕の右肩は限界に達していました。それを実感したのはオフに行われたファンフェスタ。参加した的当てのゲームで、1球も当てることができなかったのです。お遊びで気持ちが入っていなかったとかではなく、体が言うことを聞いてくれませんでした。
翌02年は「新ストライクゾーン」が採用され、広くなった高めへのカーブを有効に使えるのではという淡い期待もありました。しかし、春季キャンプこそ一軍で乗り切ったものの、オープン戦初登板となった3月9日の札幌ドームでの西武戦で力尽きました。先頭の2番・小関竜也から4連続長短打を浴び、味方の失策も絡んで1イニングを投げて打者7人に4安打2奪三振で3失点(自責2点)。結果的にこの年の最初で最後の一軍登板となりました。
即二軍降格となり、4日後には教育リーグで登板したものの、右肩の状態は芳しくありません。トレーナーに「右肩が痛い」と告げてノースロー調整にしてもらった時には、悔しさよりも「投げなくていいんだ」と少し楽な気持ちになったほどです。4月に入って状態が良くなり、ブルペンで少し力を入れて投げてみたら再び右肩に激痛が走りました。
ダイエーから数えて4球団を渡り歩き、2月末で33歳になっていたプロ11年目の僕に、手術して再起を目指す選択肢はありませんでした。就任1年目でVロードを爆走していた原監督のひと言を聞くまでは――。












