【門倉健 7球団奮投記~行けばわかるさ~(32)】2010年オフ、僕は韓国・SKの球団代表と日本で会いましたが、そこで告げられたのは「来季は契約を結びません」ということでした。この年14勝を挙げるなどフル回転していただけに寝耳に水の話でしたが実はシーズン中に左ヒザを痛めており、SKサイドはそこが引っ掛かったみたいでした。

 僕への戦力外通告はSKの現場サイドにも全く知らされてなかったらしく、金星根監督は「門倉を残してほしい」と球団に訴えたそうです。でも球団の考えは変わらず僕は12月に退団。そこですぐに連絡を取ったのがサムスン・ライオンズで投手コーチをやっていた落合英二さん(現・中日ヘッド兼投手コーチ)でした。

 当時、サムスンの指揮を執っていたのは現役時代に中日でストッパーをやったこともある宣銅烈監督で、落合さんは投手部門を任されていました。宣監督も落合さんも中日時代に一緒にプレーしていましたからよく知っています。落合さんはすぐに宣監督に連絡を取ってくれるとそこからとんとん拍子に話が進み、僕はサムスンと契約することになったのです。
 ところが僕のサムスン入りが決まったすぐ後に宣監督は突然、辞任。これには驚きました。でも宣さんが口添えしてくれたから僕はサムスンに入ることができたのですから、今でも本当に感謝しています。

 SK時代の金監督は日本で言えば星野監督みたいな人でとても厳しい指導をする方でした。たとえば試合で外野手がフライを捕れずエラーしたり、野手がバントを失敗したら試合が終わった後にノックやバント練習をするという感じでした。ところが宣さんに代わってサムスンの指揮官となった柳仲逸監督は温厚で選手が伸び伸びとやれる環境をつくってくれました。落合さんも選手の自主性に任せるタイプですからとてもやりやすかったです。

 この年は順調なスタートを切り、5月18日のネクセン・ヒーローズ戦で完封勝利。これで僕は日韓通算100勝を飾ることができました。ところがシーズン中に左ヒザを痛めてしまい、そこから思うようなパフォーマンスができなくなってしまいます。精密検査を受けた結果、手術をした方がいいとのこと。当時の韓国球界では外国人枠が2人まででしたから故障をすればすぐにクビになってしまいます。結局、僕は7月にサムスンを退団。日本に帰ってヒザの手術を受けることになりました。

 僕はこの年の7月で38歳になりましたし、自分の中でも力が衰えてきていることを感じていましたから引退の2文字も頭の中をよぎります。ただヒザさえ治ればまだやれる。そんな思いもありました。シーズン途中で解雇となったことで不完全燃焼な部分もあります。手術を経て、また投げることができるようになった僕は日、米、韓8球団目となる契約を目指し東北楽天ゴールデンイーグルスのテストを受けることになったのです。