【門倉健 7球団奮投記~行けばわかるさ~(25)】2005年にキャリアハイの11勝(8敗)を挙げ、奪三振のタイトルも獲得した僕は翌06年も規定投球回数に到達。10勝9敗で2年連続2桁勝利を記録しました。

 この年、僕はFA権を取得。年齢もある程度重ねてきましたし、あと何年投げられるだろうかということも考えるようになっていましたから横浜には複数年契約をお願いしました。ところが横浜はあくまで単年での契約という方針だったのでなかなか交渉はまとまりません。お互いの考えにずれが生じてしまったことに加えて、僕が信頼していた牛島監督もこの年限りで辞任。いろいろな状況が積み重なり、「自分を本当に必要とする球団でプレーしたい」とFA宣言することにしました。

 いくつかの球団と話をするうちに芽生えてきたのが「メジャーに挑戦しよう」という気持ちです。実はインディアンスとレッドソックスが僕に興味を示してくれて代理人を立てて交渉していました。特にインディアンスは熱心で、メジャー契約でという話でしたから自分の気持ち的にはアメリカの方に大きく傾いていました。

 そんなときに巨人の清武代表から電話がかかってきたのです。「2年連続2桁勝利を挙げている投手を海外に渡すわけにはいかない。ぜひジャイアンツの話を聞いてくれないか。一緒にやろう」。清武代表の熱い言葉は心に響きました。

 さらに清武代表の電話から数時間後、見知らぬ電話番号から電話がかかってきました。誰だろうと思って出てみると「原です」という言葉。「ん? どちらの原さんですか?」「読売巨人軍の原辰徳です」。「!!!!!」。これには仰天しました。僕らの年代のプロ野球人にとって原監督は憧れの人です。その方から直々に電話がかかってきたのですから、その瞬間、僕が正座になったのは言うまでもありません。「ぜひジャイアンツの力になってくれないか」。原監督のこの言葉に僕はもう完全にノックアウトされました。

 その後、清武代表と直接会って交渉。横浜での年俸は7500万円でしたが巨人が提示してくれたのは年俸1億円の2年契約でした。複数年契約はうれしかったですし、1億円プレーヤーに憧れもありましたからこの条件には満足でした。でもやっぱり決め手となったのは原監督と清武代表からの「君が必要だ」という熱い言葉でした。僕はほとんど決まりかけていたインディアンスの誘いを断って、巨人に入団することを決めたのです。

 06年12月11日、東京ドームホテルで行われた入団会見は原監督も同席して行われました。大勢のメディアの前で話をすることよりも、隣に原監督がいるということの方が緊張しましたね。

 入団会見の場で背番号「27」の巨人のユニホームに袖を通した僕は新天地での活躍に燃えていました。でも巨人への移籍後、僕を待っていたのはいばらの道だったのです。