【デンジャラスクイーンの真実#16】1987年4月に首の骨を折り、4か月近く病院にいました。2か月は寝たきりで2か月はハローベストを着けて。退院すると、全日本女子プロレスの松永高司会長は「プロレスはできないけど、レフェリーでもやったらどうだ。それで食べていくのは」という感じのことを言ってくれました。

同期の西脇充子(右)とポーズ(86年5月).jpg
同期の西脇充子(右)とポーズ(86年5月).jpg

 松永一家のことをいろいろと言う人もいますが、会長はケガでプロレスができなくなった後輩たちにも「事務所で働かないか」と職を失わないようにと、そういう方でした。私はレフェリーをやったことがありますが、やっぱりプロレスラーとしてリングに上がりたかった。自分の中で「復帰」以外の選択肢はありませんでした。

 ただ、私の復帰にみんなが反対しました。ある後輩が、私の復帰戦の相手になるんじゃないかと名前が挙がったことがあります。その子は「『怖くて復帰戦の相手をするのは嫌ですと言え。話がきたら断れ』と先輩に言われているんです」と打ち明けてくれました。ああ、そんな動きがあるんだなと思いましたね。

 巡業にも、試合会場にも行かせてもらえない私は事務所の掃除などしかやることがありません。それこそ毎日毎日「復帰させてください」と会長のところにお願いに行きました。そしてブリッジとか、首を強化する練習をどんどんやっていました。

 時代が時代だったんでしょうね。今だったら復帰なんて絶対に許されないと思います。でも、会長は私があまりにしつこいので「だったら1万人の署名を集めてこい」と冗談で言ったんです。

 そのころは毎日、事務所の前でファンの方たちが私を待っていてくれました。記憶が定かじゃないですが、彼女たちの前で「復帰したいけど、1万人の署名を集めてこいと言われた」と話してしまったんでしょうね。そうしたら「だったら集める」って各会場に行って「こういう選手がいます。一生懸命頑張っています。復帰には1万人の署名が必要です」と協力してくれたんです。

 訳も分からずサインした人がいたかもしれませんが、私のファンの方たちは私と似たところを持っていました。1万人と言われ、1万人で満足する子たちじゃなかったのです。集まった署名は約8万人分。「会長のところに持っていってください」と段ボールに入ったノートを持ってきてくれました。

 会長からは親の承諾書ももらってくるように言われましたが、両親は「煮るなり焼くなりしてください」って感じでした。会長いわく、私が首を骨折したとき、連絡を受けた両親は「今農繁期で忙しいから」と言ったようです。私の結婚式の主賓あいさつで会長がその話をしていました。恥ずかしい、やめてと思ったのですが(笑い)。