【デンジャラスクイーンの真実#15】1987年4月27日の大阪府立体育会館。私はこの大会で首の骨を折りました。堀田祐美子とWWWA世界タッグ王座を取ったのが4月15日ですから、わずか12日後のこと。防衛戦の相手は小倉由美さんと永堀一恵さん。だけど、試合のことは全く覚えていません。

“浪速のロッキー”と呼ばれた赤井英和(84年3月)
“浪速のロッキー”と呼ばれた赤井英和(84年3月)

 最初に気づいたときは富永脳神経外科(現富永病院)という病院でした。赤井英和さん(※)もタイトルマッチで意識不明になり、同じように運ばれて手術した病院と後から知りました。痛いと思っても手は動き、足はしびれたような感じがする。それだけは覚えています。でも、頭を触ったらジョリジョリって髪の毛がない。何かネトネトするなって思ったら血でした。

 その次に目を開けたとき、堀田が目の前で泣いていました。タオルケットを買ってきてくれて言葉なく泣きながらかけてくれました。でも、足がしびれていて何も感じません。後に聞いたところ、コーナーの2段目からパイルドライバーでマットに落とされたらしいです。頸椎骨折でした。試合は3本勝負で、その後も試合を続けたと…。もちろん、全然覚えていないんです。

 すぐに病院に運ばれてレントゲンを撮り、首をけん引。はじめの2か月は寝たきりでした。私の意識では試合の次がベッドの上で納得もできません。ベルトを失ったのかもわからなかったですし。堀田には「ゴメンね」という気持ちでした。頬に穴が開いてまで一緒に取ったベルトなのに、私のせいで取られたようなものでしたから。

 寝たきりの生活が終わった後は、頭蓋骨に穴を開け、ボルトを入れて固定する器具「ハローベスト」を付けました。まるでフランケンシュタインのよう。背中に鉄の棒が付いているから今度は寝ることができません。ずっとベッドに寄りかかる感じのままでした。

 ようやくリハビリを始めたときも覚えています。2か月寝ていただけで筋肉が落ちて立てなかったのです。支えてもらいながら「ぶつけないで」って言われて。頭蓋骨に穴を開けて、鉄を通していたので、倒れたり、ぶつけたりしたら大変なことになります。

 歩く練習では腰に帯を巻かれて「右足出して左足出して」って立ち上がることからでした。すごい泣きましたよ。「寝かして、寝かして」って精神安定剤と睡眠薬をもらう日が続きました。

 少し座れるようになったときの楽しみはハトにパンくずをあげることでした。病院の窓が少ししか開かないから、そこから「飛び降りたい」と思っても、ハトが止まる隙間しかありません。でも「菌を持っているからやめて」って窓を閉められてしまって。先生からは「プロレスはできない」って言われました。それでもずうずうしい私は「そんなわけがない」と思っていたのですが…。

 ※ボクシング元世界ランカーで現俳優。85年2月の大和田正春戦で意識不明の重体になった。