【デンジャラスクイーンの真実#14】1987年4月。堀田祐美子と組んでWWWA世界タッグチャンピオンになった私、宇野久子への風当たりは今まで以上に強くなりました。全日本女子プロレスは「酒・たばこ・男」を禁止する「三禁」が不文律とされたのですが「宇野がたばこを吸っている」と噂を流されるのは年中でした。

堀田(右)とWWWA世界タッグ王座を戴冠(87年4月)
堀田(右)とWWWA世界タッグ王座を戴冠(87年4月)

 あと、当時は体重が60キロないと巡業に参加できませんでした。私も60キロを割ってしまい置いていかれたことがあったのですが、その間に「酒盛りしている」って話まで流されて。先輩に「ちょっと来い! お前、酒盛りしてるって聞いたぞ!」って怒られるんです。当時は言葉の意味が分からずに「酒盛りって何ですか?」って聞いたほど。それに今でもお酒は飲まないので、そんなことないのですが…。

 イジメといえばイジメかもしれませんが、嫌われるだけの要素を持っていたんだと思います。55歳になった今、外の世界でいろいろなものを見て思うのは「何て小さい世界だったんだろう」ってことです。

 当時、夢をかなえるには全日本女子プロレスに入るしかありません。競争を勝ち抜いた者だけしか入れなくて、さらにその中で勝ち抜いた者しかリングに上がれない。みんなスターになりたかったわけですから、そんな中でトラブルがあるのは当たり前じゃないかと思うし、そこにはひがみ、ねたみがあるのは仕方ないですよね。

 あれは青森・八戸の体育館だったと思います。私はついに逃げ出しました。とにかく全女内で派閥争いがすごくて、それもあって「辞めたい」と思ったのです。早くしないと会社の人が追いかけてくるから、逃げたい一心で駅に行ったのに、切符を買うのに10円が足りない。本当にわずか10円が足りなかったから、明確に覚えています。

 一緒に逃げた先輩もお金がなくて駅の人が貸してくれました。逃げるときは楽しかった。これでいろいろなことから解放されるわけですし。でも、アパートがある目黒に着いたときは「何してるんだろう…」って後悔し始めてました。あんなにつらい思いをして夢をかなえたのにって。子供だったんでしょうね。

 だけど、冷静になってよくよく考えたらとんでもないことをしているんです。一緒に逃げた先輩たちと違うのは、私は全女を代表するチャンピオンだったということ。当時の全女にはWWWAシングルとタッグ、その下にオールパシフィックとかジュニアのベルトがあって、その中でもトップのWWWA世界タッグベルトを巻いていたわけですからね。

 ド新人が全女トップのベルトを巻いて逃げたのだから、怒られて当たり前ですよね。だから私にも嫌われる理由がある。そのツケが、この後すぐにまわってきたのです。