【俺のWBC#13=巨人・阿部慎之助ヘッド兼バッテリーコーチ】WBC初出場となった2009年の第2回大会で世界一、13年の第3回大会では主将として奮闘した男が、巨人・阿部慎之助ヘッド兼バッテリーコーチ(43)だ。立場が大きく異なる2度の出場でそれぞれ功績を残した球界きっての名捕手。中でも「大会連覇」という国の威信をかけた09年は、過酷な闘いの日々でもあった。
栄光への道のりは、決して順風満帆なものではなかった。阿部にとって自身初のWBCとなった09年大会。その前年、所属する巨人がリーグ優勝を決めた10月10日の試合で、阿部はけん制球で二塁へ帰塁した際に右肩を負傷。脱臼とともに「関節唇損傷」と診断されると、その後のクライマックス・シリーズは欠場し、続く日本シリーズでも捕手の守備に就くことはできなかった。
そんな中で届いたWBCへの出場オファー。送球すらまともにできない状況下にあったこともあり「リハビリをしたい」と一度は希望を出したが「山田久志さん(当時日本代表投手コーチ)から『ブルペンに実績のある捕手がいてほしい』という希望があって。それで『ホント(球を)受けるくらいしかできませんよ? リハビリがてらになっちゃいますけど、それでもいいですか?』て伝えて、その上で行かせていただいた」と山田コーチの熱意もあって出場を決めた。
その言葉通り、大会中は縁の下の力持ち役に徹した。「投手がみんな一流だから」苦労はなかったと語るものの、ブルペンでの仕事は多忙を極めた。
「実際、自分が出たゲーム以外はブルペンにいるから試合を見れないのよ。なかなか状況把握できなかったのもあるし、たまに食事で原監督とそのころの話をするんだけど『その場面見れなかったな…』とか多いもんなぁ。その時はブルペンにずっといたし『もしかしたら代打あるから、戻ってきてくれ』とか、それくらい慌ただしかったから。受け始めちゃったら試合の状況とかまったく見れなくて、観客の『ウォオオオ!』て歓声に『何が起きた!?』って言う状況だったから」
黒子としてチームの快進撃を支えた中で、今なお色あせない思い出がある。日本時間の3月20日に行われた韓国戦だ。
「消化試合とは言え、いきなり内海とバッテリーを組んで出させていただいた」
巨人でともに戦った内海の女房役として先発マスクをかぶり試合へ。
「本当に正直言えば、出られる状態じゃなかったんですけど…。でもね『いざとなったら投げられた』っていうのは本音ですよね。それまでまだマックス50メートルくらいしか投げられてない、っていう中で(原監督から)『よしお前さん行くぞ!』て言われて『いや肩が…』なんて言えない状況ですよ。そっちより『よっしゃこの舞台で試合に出れるんだ!』て。その方がうれしくて、『大丈夫です!』って言っちゃったよね」
夢舞台での興奮は痛みすらも忘れさせる。そこで得た何物にも代えがたい経験は、人間の限界を大きく超えた成長を生んだ。そもそも、当時の阿部の肩は本来であれば手術が必要であったレベルの重症。出場前、医者からは「手術をして、復帰は球宴後から」とまで伝えられていた。
まさしく満身創痍。常人であれば、世界一達成を経て心身ともに燃え尽きても不思議ではない中、日本国中のファンが驚かされたのは大会終了後のシーズンでの活躍ぶりである。当時4年ぶりとなる一塁出場もありながら、123試合に出場し32本塁打、72打点の打率2割9分3厘と、しっかり結果を残してみせた。
「やっぱりオペしなくて良かったって思ったし、人間、ああいう超大舞台って、いざ出るって自分で決めたら出られるんだと思いましたね。日本でよく言う火事場のクソ力じゃないけどね。やればできるんだと思ったもん」
ベスト4に終わった13年の大会後も、シーズンでは135試合に出場して32本塁打、92打点、打率2割9分6厘の活躍でリーグ優勝に貢献。「やろうという気持ちが本気だったら本当にできる」とWBC出場による疲労を決して口にせず、チームのために汗を流し続けた。
「どの試合も緊張するんだけど、その(WBCの)経験があったからこそ自信になるというものがありますよ。だから俺もその後も(現役を)長くできたと思うし」
それぞれ結果は異なりながらも、09年、13年で得た財産が今の「阿部慎之助」を作り上げていることに間違いはない。












