【俺のWBC#7=日本ハム・宮西尚生】2016年までに9年連続50試合登板、同年に初のホールド王のタイトル獲得と、まさにキャリアの絶頂で侍ジャパン入りしたのが日本ハムの鉄腕・宮西尚生投手(37)だ。迎えた翌17年の第4回WBC。歴代1位のNPB記録・通算380ホールドを誇る男が見た国際舞台での〝魔物〟とは…。

 32歳で迎えたプロでは初の国際舞台だった。「自分でも自信に満ちあふれていた時期。(当時の代表監督である)小久保監督がすごく自分のことを買ってくれていたのも感じていた」。オフには海外FA権を取得予定で「やっぱり外の世界も見てみたい。メジャーに挑戦したい気持ちもあった」と、当時は自らの新境地を切り開く場として、臨んでいたという。

 だが、そんな淡い期待は一瞬にして吹き飛ぶほど〝本番〟では血の気も引くような経験もした。本人が「〝戦犯〟を覚悟した」と振り返ったのが、東京での第2ラウンド初戦・オランダ戦。球界屈指の中継ぎ経験を誇る男が、勝手知ったる東京ドームで国際大会の〝魔物〟に取りつかれた。

「マウンドに立った時の球場の異様な感じ…国際大会は全然違った」

 勝てば決勝ラウンドに大きく前進した一戦は、序盤から点の取り合いで3回で5―5の同点。5回に日本が1点を勝ち越したが、中盤はボガーツ(現パドレス)、当時のNPBの本塁打記録保持者・バレンティン(ヤクルト)、ヤンキースの正遊撃手だったグレゴリウス、スクープ(タイガース)とタレント揃いのオランダに押され気味の展開だった。しかし、平野―千賀―松井―秋吉のリリーフ陣が踏ん張り続け、このリードを堅守していた。

 綱渡りでの継投のバトンが8回、6番手の宮西に託された。だが「もう…ブルペンから気持ち悪くて、吐きそうだった」と、左腕は全身に脂汗がしたたるのを感じていた。さらにたたみかけてきたのが、経験したことない球場の空気感。これまでに何度もそのマウンドに上がり、数々のピンチをくぐり抜けてきた東京ドームが、まったく別世界の空間に感じられたという。

「普段なら何も思わない。ビジター球場でも相手の応援団が多いんだけど結局、何回もそこに行っているので。友達の家に行く感覚」。これまで切羽詰まった場面で投入されることが左腕にとって「日常」であったにもかかわらずだ。

「例えれば、勝手に他人の家に上がり込んでしまった感じ。しかもそれがすごい目上の人の家で、互いに『誰?』みたいな。いやでも、ヨソ行きになる感じ。日本だし、東京ドームなのに、日本の応援団しかいないけど、盛り上がり方や空気感が全然違った…」

 何とか気持ちを奮い立たせて腕を振ったが、さらに追い打ちをかけたのが、生命線である宝刀・スライダーが自覚できるほどに精彩を欠いていたこと。

 無死からグレゴリウス、スクープに連打を浴び一死後、リカルドに四球で歩かせ一死満塁。一打逆転のピンチを招くと、小久保監督がベンチを出た。その後の絶体絶命の場面を当時は日本ハムの同僚でもあった増井が好救援で失点を防ぎ、心の底から安堵した。幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男は「すべてが最悪でした」と当時の苦い体験を振り返った。

 あれから約6年。宮西はブルペンの誰もが「見えない敵」と戦っていたと明かす。「みんなもう顔が真っ青だった。『もう無理』とか『投げたない』とか、普段、弱音吐かないメンツが、弱音吐いて。『大丈夫だから! 頑張ろう!』ってみんなで励まし合っていた」。味方の危機は〝飯のタネ〟で、どんな窮地でもシーズンでは平然としている仕事人たちが、手に手を取り合いマウンドの投手に祈りを捧げ、1つのアウトを我がことのように喜び、ガッツポーズを繰り出していた。

「いつもならできることが、できなくなる」。歴代ナンバーワンのホールド数を誇るスペシャリストは、初めての国際大会で出会った魔物の〝正体〟を証言し、こう続けた。

「自分もその時、死ぬ気でやっていた。選ばれて戦ったものにしか分からないってよく言うけど、選ばれたことのある立場からモノを言えるとしたら、思い切って行った結果、仮に失敗でも…それは受け止めるしかない。その気持ちは今度はより分かると思うけどね」

 国際舞台は少しでもボタンを掛け違えれば「地獄」を見る。すでに球史に名を残す左腕にとっても、WBCは改めて「怖さ」を身を持って感じた、忘れられない教訓となっている。